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三陟市

韓国・江原特別自治道の市 ウィキペディアから

三陟市
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三陟市(サムチョクし・さんちょくし)は、大韓民国北東、江原特別自治道南部にある

概要 位置, 各種表記 ...
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三陟市庁

太白山脈の東側に位置し、日本海(東海)に面している。漁業農業石灰岩セメントなどの鉱業が主産業で、長い砂浜の海水浴場鍾乳洞が有名な観光地でもある。かつては石炭の産出も盛んだった。

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地理

江原特別自治道の南部、慶尚北道との道境に位置する。東は日本海に面し海岸線は58.4kmにわたってのび、西には険しい太白山脈が連なる。1185平方kmの面積のほとんどは山林(1,049.6平方km)である。太白山脈の主峰のひとつで仏教シャーマニズム巫俗)の聖地でもある頭陀山を筆頭に、古来から霊山とされてきた石灰岩質の奇岩怪石の峰々がそびえる。山中にはツツジや薬草、老巨木が生え、長さ数kmにおよぶ多くの地下洞がある。

    • 頭陀山 (1,353m)
    • 青玉山 (1,404m)
    • シイウム山 (683m)
    • 徳項山 (1,071m)
    • 応峰山 (999m)
    • 剣峰山 (682m)
  • 洞窟(鍾乳洞)
    • 幻仙窟・観音窟
    • 大金窟
    • これらの洞窟は徳項山のふもとの新基面・大耳里にある。幻仙窟は1997年に長さ1.6kmが観光客向けに開放されたが、総延長は6km以上あり最奥部は未探査である。大金窟は2007年に開放された。

隣接自治体

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三陟海水浴場
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関東八景のひとつ、竹西楼
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歴史

  • 三韓時代には悉直国(シルジク=グク)、または悉直谷国(シルジクゴク=グク)と呼ばれる氏族国家があり、新羅の北辺の地であった。6世紀初めの新羅の智証麻立干の時代に州郡県制が定められると悉直州となり、統一新羅時代の景徳王の治世の757年(景徳王16年)に国内の地名が唐風に改名された際に三陟郡となった。
  • 三国統一後の757年(景徳王16年)に行政制度改編で現在の名前である三陟郡に改称された後、現在の三陟市内外にあった4県を属県として管轄している。
    • 満卿県 - 旧・満若県であった。現在の三陟市近徳面。
    • 羽渓県 - 旧・羽谷県であった。高麗時代に溟州へ所属が変わった。現在の江陵市玉渓面。
    • 竹嶺県 - 旧・竹峴県であった。朝鮮王朝の後に所達面になったが、1630年仁祖8年)に三陟府使の李埈が三陟府境内を9里に分け治めるとき、ここを長省里とした。後に上長省面と下長省面に分かれたが、上長省面は現在の太白市となり下長省面は現在の三陟市下長面となった。
    • 海利県 - 旧・波利県であった。現在の三陟市遠徳邑。
  • 後三国時代に三陟金氏などの強力な豪族勢力の支配下に置かれ真珠という別名で呼ばれた。[2]
  • 高麗時代の995年成宗14年) - 陟州団練使が設置された。
  • 1018年顕宗9年) - 県に降格されて当該三陟県にされた。
  • 朝鮮王朝1393年太祖2年)- 穆祖李安社の外向として三陟府に昇格され、4年後の1397年(太祖6年)に軍鎮として三陟鎮が設置された。
  • 1413年太宗13年) - 三陟都護府に昇格された。
    • 1393年から1413年の間、高麗最後の王であった恭譲王の流刑地となり、1394年にこの地で暗殺された。また朝鮮王朝の太祖李成桂の玄祖父の李陽茂夫妻の墓所である浚慶墓・永慶墓があり、鬱蒼とした松林に囲まれ、風水に恵まれた地とされている。
  • 1631年(仁祖9年)- 三陟都護府内に9つの行政区域が設定された。末谷・府内・徳蕃・北坪・未老・所達・盧谷・見朴谷・長省里
  • 1681年 -(粛宗7年) 襄陽地震。朝鮮半島で発生した記録の残る地震で最大規模と推定されている。
  • 1738年英祖14年) - 12面に再調整された。末谷(洞地域内陸)・府内(洞地域海岸)・近徳蕃・遠徳蕃・未老・所達・盧谷・見朴谷・上長省・下長省・道上・道下

三陟市

  • 1986年1月1日 - 三陟郡三陟邑が市制施行して三陟市が発足。[3]
  • 1995年1月1日 - 三陟市・三陟郡が合併し、改めて三陟市が発足。[4](2邑6面)
  • 2022年3月4日 - 隣接する蔚珍郡で大規模な山火事が発生。三陟市へと延焼し[5]、一週間以上にわたり燃え続けた[6]

三陟郡

  • 1895年6月23日(旧暦閏5月1日) - 郡制が敷かれると三陟郡が設置される。[7]
  • 1896年8月4日 - 江原道三陟郡に改編。[8]
  • 1914年4月1日 - 郡面併合により、三陟郡に以下の面が成立。[9](9面)
    府内面・北三面・上長面・近徳面・遠徳面・未老面・所達面・盧谷面・下長面
府令第111号
さらに見る 旧行政区域, 新行政区域 ...
1914年の行政区画と現在の行政区画の比較
さらに見る 1914年, 現在 ...
  • 1917年 - 府内面が三陟面に改称。(9面)
  • 1938年10月1日 - 三陟面が三陟邑に昇格。[13](1邑8面)
  • 1943年 - 遠徳面の一部(草谷面・梅院里)が近徳面に編入。
  • 1945年7月1日 - 北三面が北坪邑に昇格。[14](2邑7面)
  • 1960年1月1日 - 上長面が長省邑に昇格。[15](3邑6面)
  • 1963年1月1日 - 所達面が道渓邑に昇格。[16](4邑5面)
  • 1973年7月1日(5邑5面)
    • 長省邑の一部を黄池邑として分離。[17]
    • 下長面の一部(柯木里・道田里)が旌善郡臨渓面に編入。[18]
    • 盧谷面金鶏里が近徳面に編入。[18]
  • 1980年
    • 4月1日 - 工業港のある北坪邑が溟州郡墨湖邑をもって東海市を新設し、郡より離脱。[19](4邑5面)
    • 12月1日 - 遠徳面が遠徳邑に昇格。[20](5邑4面)
  • 1981年7月1日 - 炭鉱の町である黄池邑・長省邑が合併して太白市を新設し、郡より離脱。[21](3邑4面)
  • 1986年
    • 1月1日 - 三陟邑が市制施行して三陟市となり、郡より離脱。[3](2邑4面)
    • 3月27日 - 遠徳邑の一部を柯谷面として分離。[22](2邑5面)
  • 1987年1月1日 - 遠徳邑の一部(荘湖里・龍化里)が近徳面に編入。
  • 1989年4月1日 - 道渓邑新基出張所が新基面に昇格。[23](2邑6面)
  • 1994年12月26日 - 下長面の一部が太白市に編入。(2邑6面)
  • 1995年1月1日 - 三陟郡が三陟市と合併し、改めて三陟市が発足。三陟郡消滅。[4]
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行政

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行政区域図

行政区画

さらに見る 行政洞・邑・面, 法定洞・法定里 ...

警察

消防

  • 三陟消防署

気候

日本海の暖流に影響された海洋性気候であり、江原特別自治道の内陸部よりもは比較的涼しくは比較的暖かい。年平均気温は12.5度、8月が平均24.1度で1月が平均0.5度。最高気温極値は37.5℃(1992年7月29日)、最低気温極値は-15.6℃(1978年2月1日)である。年間降水量は1,284.5mmで、夏に雨が多く、台風や集中豪雨にも影響される。

姉妹都市・友好都市

交通

  • 三陟統合バスターミナル。(高速バスと市外バスの両ターミナル)

鉄道

出身著名人

脚注

関連項目

外部リンク

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