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二木島町

三重県熊野市の地名 ウィキペディアから

二木島町
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二木島町(にぎしまちょう)は、三重県熊野市町名[WEB 5]。「二喜島」や「二鬼島」という表記が用いられていた時期もある[1]

概要 二木島町, 国 ...

漁業林業が町の主要な産業である[2]。陸路と海路の要所として発展してきた歴史から、一里塚などの史跡が残る[3]

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地理

熊野市東部に位置し、東部は二木島湾に面する[4]。北部は山に囲まれ、山を越えると尾鷲市に至る。中心集落は二木島町の中央部にあり、JR紀勢本線国道311号が通っている[3]

  • 河川:逢川
  • 海洋:二木島湾、熊野灘
  • 岬:牟婁崎

北は尾鷲市曽根町、東は熊野市甫母町(ほぼちょう)・二木島里町、南は熊野市遊木町(ゆきちょう)、西は熊野市新鹿町(あたしかちょう)と接する。

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二木島湾の空中写真。奥深い入江の西端(画像左)が二木島町地区中心部である。
1976年撮影の4枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

逢川

逢川(あいかわ)は二木島町の中央部を流れる河川[5]。河川の名は、伊勢神宮熊野権現が出会った地であることに由来するという[5]大化2年(646年)には、逢川を志摩国紀伊国国境に定めたという説がある[5]

三重県立熊野古道センターによれば、逢川は清流であり、流域にはシダ植物が自生する[WEB 6]。逢川の水質は以下の通り[WEB 7][6]

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歴史

要約
視点

近代まで

海岸では縄文時代弥生時代古墳時代、さらにそれ以降の複合的な遺跡が見つかっている[7]江戸時代には、紀伊国牟婁郡木本組に属し、二木島浦として紀州藩の配下にあった[7]。『慶長高目録』では「二木島組」に属するとされた[7]寛文年間(1661年 - 1672年)頃まで二木島里浦(現・熊野市二木島里町)とは同一の村であったが、この頃に二木島里浦が二木島浦から分離した[7]。『紀伊続風土記』によれば、各家は船を保有し漁業を主業としていたという[5]

当時は熊野灘を行き交う航路の寄港地として栄え[8]、『日本航路細見記』は「二木島は上下の大みなと也」と記し、『全国湊くらべ』は二木島港を西前頭四四枚目に格付けした[5]船乗りを相手とした遊女も出現した[5]。また捕鯨が行われ、の供養塔の建立や藩主・徳川重倫の鯨突取り漁法観覧が行われた[7]

明治時代には、1876年(明治9年)の二木島浦小学校(現・熊野市立荒坂小学校)開校、1899年(明治32年)の荒坂銀行開業、1901年(明治34年)の郵便局開局など近代化が進んだ[7]。また1889年(明治22年)の町村制施行時には、荒坂村の1大字となり、村役場が設置された[7]1907年(明治40年)には捕鯨会社が設立され、当初は年間113頭を捕獲したが、年々減少し末期には5頭のみとなり、1915年(大正4年)に営業を終了した[7]1944年(昭和19年)12月7日昭和東南海地震が発生、7度の津波が二木島浦を襲い、5人が犠牲となった[9]

現代

1954年(昭和29年)、昭和の大合併により熊野市が発足し、二木島浦は「二木島町」に改称した[7]1959年(昭和34年)7月15日国鉄紀勢本線が二木島町内を通るようになり、二木島駅が設置された[10]。鉄道開通前の二木島町は、熊野市街の木本町へ行くのに巡航船で2時間、路線バスで1時間かかっていたが、鉄道開通後は30分で行けるようになり、開通前夜には住民が提灯行列鉄道唱歌替え歌合唱して祝した[10]

1975年に熊野灘二木島海中公園地区が指定された[11]

1980年(昭和55年)1月31日手斧猟銃で親族10人を殺傷し、犯人が自殺する熊野一族7人殺害事件が発生した[12]。ちょうど当時二木島町に近い熊野市新鹿町に住んでいた中上健次は、事件を報じる新聞週刊誌を追いかけ、『熊野集』において以下のように記している[13]

その事件は自分がいままで書いて来た小説の顕現化だとも思ったし、私小説で何度も書いた主人公の暴発が成就したものだという思いもつもった。ノートを取り、ひりつく気持のうちに小説に仕立てようと何度も試みた。実際何もかも符丁が合い過ぎていた。

その後、中上は柳町光男監督の映画作品『火まつり』(1985年公開)のシナリオを手掛け、この事件を題材とし、作品の舞台も二木島町とした[14]。さらに映画公開後すぐに小説化に取り組み、『文學界』で連載された後、1987年(昭和62年)に文藝春秋から単行本が出版された[15]

1983年(昭和58年)12月21日、二木島駅が無人駅となる[16]。2011年(平成23年)3月26日、町内にある荒坂小学校の休校式が児童6人と住民約100人の出席の下、開催された[17]。最盛期の1960年代には児童数400人に達し、2つの分校も有していたが、末期の7年間の在校生は1桁であった[17]

沿革

町名の由来

諸説ある。

  • 神武天皇熊野の荒坂津で丹敷戸畔(にしきとべ)を殺したという『日本書紀』に記載のある故事に由来する(『紀伊続風土記』説)[7]。この説では荒坂津(あらさかのつ)を二木島に比定しているが、度会郡大紀町錦に比定する説もある[5]
  • 波が穏やかな湾に臨むことから、「和島」(にぎしま)・「凪島」(なぎしま)と呼ばれたことに由来する(『新くまの風土記』説)[7]

町名の変遷

さらに見る 実施後町名, 実施年月日 ...
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世帯数と人口

2019年(令和元年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 2]

さらに見る 町丁, 世帯数 ...

人口の変遷

1889年以降の人口の推移。なお、1995年以後は国勢調査による推移。

1889年(明治22年) 818人[7]
1980年(昭和55年) 814人[7]
1990年(平成2年) 620人[18]
1995年(平成7年) 540人[19]
2000年(平成12年) 441人[20]
2005年(平成17年) 348人[21]
2010年(平成22年) 288人[22]
2015年(平成27年) 246人[23]

世帯数の変遷

江戸時代・1889年以降の世帯数の推移。なお、1995年以後は国勢調査による推移。

江戸時代 157戸[7]
1889年(明治22年) 191戸[7]
1980年(昭和55年) 261世帯[3]
1990年(平成2年) 231世帯[18]
1995年(平成7年) 213世帯[19]
2000年(平成12年) 195世帯[20]
2005年(平成17年) 170世帯[21]
2010年(平成22年) 151世帯[22]
2015年(平成27年) 133世帯[23]

学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[WEB 8]

さらに見る 番・番地等, 小学校 ...

荒坂小学校は2011年(平成23年)3月31日に休校となり、翌月から遊木小学校(ゆきしょうがっこう)に通学することになった[17]が、遊木小学校も2013年(平成25年)3月31日に休校となり2013年4月以降、新鹿小学校(あたしかしょうがっこう)へ通学することになった[24]。また荒坂中学校も2014年(平成26年)3月31日をもって休校となり、2014年4月以降、新鹿中学校(あたしかちゅうがっこう)へ通学することになった[25]

荒坂小学校・荒坂中学校ともに、二木島町にある[26]2012年(平成24年)現在、荒坂中学校の全校生徒は11人である[8]

生活

災害対策と医療

二木島町では、過去に何度も津波の被害を受けており、東南海地震が発生した場合、震災発生後13分後に19.16mの津波が襲来するという三重県の予測がある[27]。想定通りの高さの津波が押し寄せた場合、避難所に指定されている荒坂中学校でも危険だと朝日新聞は報じている[28]。2011年(平成23年)12月の夜間に行われた避難訓練では高台を通る国道までの避難に30分かかり、高齢の住民からは「もう無理」との声も聞かれた[28]

また災害発生時の孤立が懸念されており、実際に1998年(平成10年)と2001年(平成13年)には国道311号が土砂崩れで寸断され、住民が孤立してしまった[29]

こうした中、二木島町にある1980年(昭和55年)開設の「熊野市立荒坂診療所」では災害医療に備えてさまざまな準備を行っている[WEB 9]。勤務する唯一の医師は、災害に備えて小型船を所有し、自前で担架を購入、無線資格を取得して孤立対策をとっている[WEB 9]

二木島祭

二木島祭(にぎしままつり)は、二木島湾でかつて行われていた祭り[30]。湾岸の室古神社と阿古師神社の祭りであり、両神社の関船による競漕が祭りの中心であった[30]。2010年(平成22年)11月3日の開催を最後に担い手不足からおよそ300年続いた祭りの歴史は途絶えた[30]

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観光

二木島町は熊野古道伊勢路が通っており、町内の二木島峠を訪れる観光客は、紀伊山地の霊場と参詣道世界文化遺産の指定を受けてから5年が経過した2009年(平成21年)には3 - 5倍にも増加した[31]

2012年(平成24年)の末には、荒坂中学校の教諭の勧めにより全校生徒11人で「荒坂イレブン」が結成された[8]。荒坂イレブンは「地域と密着。過疎から脱却。」を掲げ、郷土史家から史跡について学ぶなどして観光ガイドを行っていた[8]。なお、荒坂イレブン結成前の2010年(平成22年)には、当時中学3年だった女子生徒5人が担任の勧めでツアーガイドを2度務めたことがあり、カメラマンが「古道ガールズ」と名付けた[32]。古道ガールズは、2025年(令和7年)に30歳を迎えるのを機に、休校中の荒坂中学校でタイムカプセルを開封した[32]。住民による熊野古道の語り部も存在する[10]

熊野古道以外の観光としては二木島沖での釣り[WEB 10]ダイビングがある[WEB 11]

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交通

鉄道開通前まで、熊野市街の木本町まで巡航船が運行されていた[10]。また、1998年(平成10年)6月22日に国道311号が崩落した際には、同年7月31日まで熊野市と三重県が二木島町と甫母町(ほぼちょう)の間で臨時の渡し船を運航した[33]

鉄道
東海旅客鉄道紀勢本線二木島駅
路線バス
熊野市自主運行バス二木島峠口バス停
  • 潮風かほる熊野古道線 二木島駅前
  • 潮風かほる熊野古道線 三交南紀
乗合タクシー
  • 海岸部乗合タクシー(予約制)[WEB 12]
道路
  • 国道311号 - 熊野市街へ至る主要道であるが、1車線のみの区間が多く、災害時の寸断が懸念されている[WEB 9]
  • 三重県道572号二木島港線
  • 熊野古道伊勢路

施設

  • 熊野市役所荒坂出張所
  • 熊野市立荒坂小学校
  • 熊野市立荒坂中学校
  • 熊野市立荒坂診療所
  • 二木島郵便局
  • 熊野警察署二木島駐在所
  • 伊勢農業協同組合荒坂店
  • 熊野漁業協同組合二木島支所
  • 二木島漁村センター
  • 荒坂公民館二木島分館
  • 川口家旅館
  • 民宿中村屋

史跡

熊野古道が通っており、多くの文化財が残されている[8]

海福山最明寺

曹洞宗仏教寺院で、二木島町・二木島里町の氏寺[5]本尊阿弥陀如来立像[5]。近世には、近海で遭難病死などした水夫がここに葬られた[5]。本堂は1994年(平成6年)3月9日三重県の有形文化財(建造物)[WEB 14]、所蔵する「絹本著色釈迦涅槃図 附 貞享四年銘箱」(けんぽんちゃくしょくしゃかねはんず つけたり じょうきょうよねんめいはこ)は2010年(平成22年)3月11日三重県の有形文化財(絵画)に指定された[WEB 15]

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出身者

その他

日本郵便

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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