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円谷英俊

日本の元プロ野球選手 ウィキペディアから

円谷英俊
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円谷 英俊(つぶらや ひでとし、1984年9月17日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手内野手、右投左打)・コーチ

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

要約
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プロ入り前

横浜市立洋光台第一小学校1年の時から「洋光台キングタイガース」で投手内野手として野球を始める。中学時代は中本牧リトルシニアに所属。

横浜高等学校では1年春からベンチ入りし、1年秋からレギュラー。2年夏に第83回全国高等学校野球選手権大会に出場した。

青山学院大学では1年春からベンチ入り。3年春に首位打者、3年春秋はベストナインを獲得。4年で大学全日本に選出。東都大学リーグ通算86試合出場、303打数87安打、打率.287、6本塁打、37打点。ベストナイン2回受賞。1年時に東都大学野球一部秋季リーグで優勝、3年春季から4年春季まで大﨑雄太朗高市俊横川史学小窪哲也などとともにリーグ戦3連覇を達成し、戦国東都と言われる東都大学野球一部リーグで計4度の優勝を経験。2005年第54回全日本大学野球選手権優勝、2006年第55回全日本大学野球選手権準優勝という成績を残した。 2006年の大学・社会人ドラフト4巡目で巨人に指名され入団。同年のドラフトでは円谷のほか、横川史学大﨑雄太朗高市俊も指名を受け、青山学院大学硬式野球部から同時に4名が指名されたのは10年ぶり2回目であった。後に2008年に楠城祐介が指名され青学大同級生5人がプロ野球選手となった。「友達・相棒」として、またゲンかつぎの意味も込め、大学3年時に知人から貰ったスヌーピーの縫いぐるみを同伴して入寮し話題となった。

プロ入り後

2007年、春季キャンプでは一軍スタート。3月29日千葉ロッテマリーンズ二軍とのイースタン・リーグ公式戦において大嶺祐太から、チームシーズン第1号となる初本塁打を放つ。三塁手としてほぼフル出場、打率.241、2本塁打を記録した。

2008年、シーズン初頭に初めて一軍に昇格したが、数日で二軍に戻る。二軍でも控えに回る不安定な立場となる。一時打率も2割前後と低迷。最終的には打率.262、2本塁打と昨季の二軍での成績を上回った。

2009年、初の開幕一軍入りも出場機会がないまま二軍降格。二軍でも打率2割台前半と低迷したが、一軍の二塁手、左打者不足で8月に一軍昇格。8月18日、プロ初安打となる本塁打を放ち、お立ち台も経験することとなった。同年4月に1歳年下の女性と結婚した。

2011年、一軍の怪我人続出により一軍昇格し、5月17日ロムロ・サンチェスから勝ち越し打を放つも、目立った活躍はこれだけで二軍落ち、8月に肩を痛めて治療を余儀なくされる。以降は二軍では山本和作福元淳史が優先起用され出番は少なく、オフに肩の完治を目指し育成選手として再契約することになった。

2012年10月2日、球団から来季の契約を結ばないことが発表された[1]

引退後

引退後は2013年から2015年までの3年間ジャイアンツアカデミーのアシスタントコーチに就任した[2]

2015年10月29日2016年から巨人に新設される三軍の内野守備走塁コーチに就任することが発表された[3]。4年ぶりの現場復帰。

2018年は三軍内野総合コーチを務めたが、同シーズンをもって退任、2019年からはジャイアンツのスカウトに就任する。

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選手としての特徴・人物

円谷という苗字から、登場曲にザ・サーフコースターズの「ウルトラQのテーマ」を使用していた。

詳細情報

年度別打撃成績

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年度別守備成績

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記録

背番号

  • 32 (2007年 - 2009年)
  • 52 (2010年 - 2011年)
  • 001 (2012年)
  • 104 (2016年 - 2018年)

脚注

関連項目

外部リンク

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