トップQs
タイムライン
チャット
視点
前川和也
日本のサッカー選手 ウィキペディアから
Remove ads
前川 和也(まえかわ かずや、1968年3月22日 - )は、長崎県平戸市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー[2]。元日本代表。
![]() |
![]() |
現在はFCバイエルン・ツネイシ監督を務める。
Remove ads
人物
現役時代は、大きな体格を活かしたセービングを得意とした。特に相手との1対1の場面でのセービングに定評があり、絶妙な飛び出しで何度もチームを危機から救った。シュートに対する反応はもとよりPKにも強く、またハイボールの処理も巧みにこなした。その様は「生きている壁」と形容された。 人柄もサポーターから愛され、広島退団時には涙を流すサポーターもいた。
経歴
プロ入り後
高校卒業後の1986年、島卓視や横内昭展らと共にマツダSCへ入団。GKコーチであったディド・ハーフナーから指導を受け、徐々に頭角を現し正GKの座を掴む。1989年-1990年のJSLおよび1990年-1991年のJSLではJSL2部ベスト11に輝いている。
1992年にチームがJリーグのサンフレッチェ広島として発足すると正GKとして活躍。しかし怪我が多く、長期欠場することも多かったため、控えGKである河野和正の出場試合も多かった。1994年のチャンピオンシップでは2試合とも欠場している。
クラブでは、1997年まで正GKの地位を守る。しかし1998年に古傷の肩の手術を決行したことで、出場機会を得た下田崇にレギュラーを奪われ、以降は控えに回る。2000年に大分トリニータへ出場機会を求めて移籍した。涙を流しながらの移籍発表会見は、現在も広島サポーターの語り草となっている[要出典]。
大分では正GKとして活躍し、翌2001年に完全移籍[5]。同年引退した。
2002年より、大分トリニータの事業部にて営業や試合運営の補助、強化クラスなどに携わった。
2006年より、サンフレッチェ広島の提携スクールの一つであるサンフレッチェ常石サッカースクールのコーチに就任、またGKクリニックのコーチとしても活動している。
2009年から常石ジュニアユースの監督に就任。2012年、同ユースが提携先をバイエルン・ミュンヘンへと変更したことに伴い、FCバイエルン・ツネイシの監督となる。
またスカパー!のJリーグ中継の解説も務めている。
代表
1992年に日本代表に初選出され17試合に出場。1992年アジアカップでは、準決勝の中国戦で退場した松永成立に代わり急遽出場する。トンネルによる失点という失態を犯したが、決勝では安定したプレーを見せ日本代表の初優勝に貢献した。
1993年には「ドーハの悲劇」もベンチで経験した。
Remove ads
私生活
妻・志穂[6]との間に1994年、黛也が誕生した。黛也は後に前川と同じくGKとしてプロ入りし、2021年には日本代表にも選出されている。親子二代での日本代表入りは、Jリーグ発足後では初となる[4]。
1995年に誕生した次男の天良も同じくGKであり、大分トリニータやサンフレッチェ広島のジュニアユースを経て、2023年まで東京都社会人サッカーリーグ1部のSHIBUYA CITY FCに所属していた[7]。
2019年には初孫(黛也の長男)が誕生した。
略歴
ユース歴
- 1983年 - 1985年 長崎県立平戸高等学校
選手歴
指導歴
- 2002年 - 2005年 大分トリニータ スタッフ
- 2006年 - 2011年 サンフレッチェ常石サッカースクール コーチ
- 2009年 - 2011年 サンフレッチェ常石ジュニアユース 監督
- 2012年 - FCバイエルン・ツネイシ監督
個人成績
その他の公式戦
- 1991年
- コニカカップ 6試合0得点
- Jリーグ初出場:1993年5月16日 対ジェフユナイテッド市原戦(広島スタジアム)
- JSL(1部)初出場:1991年9月15日 対日産戦(三ツ沢球技場)
Remove ads
チームタイトル
クラブチーム
- Jリーグ ステージ優勝 1回(1994年サントリーシリーズ)
日本代表
代表歴
- 日本代表初出場:1992年6月7日 対ウェールズ戦(愛媛県総合運動公園陸上競技場)
試合数
- 国際Aマッチ 17試合 0得点(1992年 - 1996年)
出場
Remove ads
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads