トップQs
タイムライン
チャット
視点
剱持松二
日本の将棋棋士 ウィキペディアから
Remove ads
剱持 松二(けんもち しょうじ、1934年7月21日 - 2016年1月7日)は、将棋棋士。東京府(現:東京都)出身。荒巻三之九段門下。棋士番号73。2000年3月引退。「松寿」を名乗っていた頃もある[1]。
Remove ads
経歴
![]() | この節の加筆が望まれています。 |
1961年度は東西対抗勝継戦で優勝し、また、1962年・1963年には順位戦連続昇級し、現役プロとしてのピークを迎えた。七段から八段へ昇段するのに19年間を要したが、その昇段祝賀会には150人もの参加者が詰めかけた。
順位戦において、降級点取得回数11回(B級2組で5回、C級1組で4回、C級2組で2回)・抹消5回(B級2組で3回、C級1組で2回)の珍記録を有している。
引退間際でも若手棋士にたびたび勝つ事から、「若手潰し」として恐れられた。例えば1988年度順位戦C級1組で、直後に竜王位を獲得する羽生善治に勝ち、結果として頭ハネで昇級を阻止している。
2016年1月7日、心不全のため死去[2]。
人物
- その人柄から、大山康晴からも升田幸三からもかわいがられた。また、連盟の裏方として、スポンサー集め、募金集めに東奔西走した。特に三菱電機との関係が深かったとのことで、将棋会館建設時や早指し将棋選手権の開始時などは同社から多額の寄付金を引き出しているという[3]。またプロレス好きの剱持は、三菱電機が当時日本プロレス中継のスポンサーだったため、同社を通じて力道山との親交があり、力道山が将棋好きということもあって、アマチュア三段の免状を贈呈したこともある[4]。
Remove ads
経歴
主な成績
通算成績
- 399勝660敗
棋戦優勝
- 1回(1961年度・東西対抗勝継戦)
在籍クラス
→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
表彰
- 1973年 日本将棋連盟より功労者表彰
- 1996年 現役勤続40年表彰
Remove ads
弟子
棋士となった弟子
(2024年7月23日現在)
加藤は1954年のプロ入り時は南口繁一門下であったが、南口死去後の1998年に剱持門下に変更している。
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads