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原田督三
日本の元プロ野球選手、野球解説者 (1919-1976) ウィキペディアから
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原田 督三(はらだ とくぞう、1919年8月28日 - 1976年3月30日)は、愛知県出身の元プロ野球選手(外野手)、野球解説者。1948年 - 1955年まで原田徳光の登録名でプレーした。
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経歴
中京商業学校時代に野口二郎らと共に1937年夏と1938年春の甲子園で優勝。明治大学、社会人野球の東洋産業を経て、1948年に中日ドラゴンズへ入団。
当時の中日は赤嶺旋風で主力選手が引き抜かれた直後で、1年目から主力として活躍。当初は中堅手だったが、移籍してきた坪内道典が中堅に入ったため1949年から右翼へ回り、3年目には初の打率3割到達。1950年にはリーグ最多の12三塁打を記録。1953年8月17日の巨人戦(後楽園)で史上9人目(10度目)、中日の選手では初のサイクルヒットを記録。しかしチームは10対12で敗れ、達成選手が試合で敗れた初の例となった。1954年には2番・右翼の定位置でチーム初の日本一に貢献した。
オールスターゲームには4度出場。1953年には野口明(捕手)、児玉利一(三塁)、杉山悟(外野)と共にファン投票で選出され、2025年現在も中日のファン投票選出4人の最多記録となっている[1]。
1958年に現役を引退。
その後は、中日コーチ、東海ラジオ放送プロ野球解説者兼同局スポーツ課長などで活躍し「ホトケのトクさん」の愛称で親しまれた。しかし、晩年は健康に恵まれず1971年に解説者を引退。以降は定年退職まで同局で勤めた。1976年に56歳で敗血症により死去。
通算203盗塁は荒木雅博、高木守道、中利夫、大島洋平に次ぐ球団歴代5位[2]。強肩の持ち主で、1950年にはシーズン21補殺を記録(NPB外野手歴代3位タイ、球団記録)[3]。またポジショニングがうまく、右打ちを得意とした千葉茂が「原徳(はらとく)さえいなければ、俺は生涯打率3割だった」と語っていたという(実際の打率は0.284)[4]。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 中日(中日ドラゴンズ)は、1951年に名古屋(名古屋ドラゴンズ)に、1954年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更
記録
- 節目の記録
- 1000試合出場:1956年3月21日 ※史上34人目
- その他の記録
背番号
- 8 (1948年 - 1958年)
- 62 (1959年 - 1960年)
登録名
- 原田 徳光 (はらだ とくみつ、1948年 - 1955年)
- 原田 督三 (はらだ とくぞう、1956年 - 1960年)
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関連情報
出演
- 東海ラジオ ガッツナイター - 生前解説者として出演していた番組。
脚注
関連項目
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