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吉沢岳男

日本の野球選手 ウィキペディアから

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吉沢 岳男(よしざわ たけお、1933年7月15日 - 1971年7月15日)は、長野県松本市出身のプロ野球選手捕手)。

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

松商学園時代には甲子園に4度出場し、控え捕手であった1年次の1950年の夏は1回戦で済々黌高に敗退[1]。2年次の1951年には正捕手となり、夏の選手権2回戦で平安高に敗退[1]。3年次の1952年には春の選抜で1年下のエース・堀内庄とバッテリーを組むが、1回戦で芦屋高植村義信に抑えられて敗退[2]。同年の夏の選手権では2回戦(初戦)で柳井商工森永勝治に完封負けを喫する[1]

卒業後の1953年名古屋ドラゴンズへ入団。当初は野口明河合保彦の存在もあって出場機会には恵まれなかったが、1955年には一軍に定着。1957年には河合からレギュラーの座を奪って82試合に出場し、その後も正捕手の座を守る。打者の読みを外すインサイドワークで投手陣を引っ張った。1961年濃人渉が監督に就任するとこれと対立し、1962年近鉄バファローズへ放出される。

近鉄では1964年に自己最高の打率.258を記録するなど1966年まで正捕手として活躍するが、1967年からはコーチ兼任となり、木村重視児玉弘義に定位置を譲る。1969年相川進杉斉英とのトレードで中日へ復帰するが、同年限りで現役を引退。

引退後はトラック運転手に転身したが、妻と離婚。晩年はたこ焼き店の店員として勤務していたが、1971年7月15日、自身の誕生日に脳出血のため名古屋市中村区の自宅アパートで死去。当時は新聞記事等で「扇風機の切り忘れは突然死の原因となる」という説が紹介されていたため、吉沢の死もそれが原因であるかのように語られることがあった[3]

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選手としての特徴

  • 1959年に記録した47打席連続無安打のセ・リーグ記録を持っている(2016年に荒木雅博も記録してタイとなる)[4]
  • 先述の無安打記録の他、打撃面では1割台後半から2割台そこそこの打率しか記録できないほど粗さがあったものの、守備では前述のインサイドワークなどが巧みでセ・リーグを代表する捕手の一人として活躍した。それだけに当時の中日の監督であった濃人渉との対立で1962年に近鉄に放出された事実を知った水原茂(当時、東映の監督)は「中日は何という事をしたのだ。吉沢をパ・リーグに出してしまうなんて、セ・リーグの損失だぞ」と嘆いたという[5]。なお、水原は1969年に中日の監督に就任した際、吉沢を中日に復帰させている。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

節目の記録
  • 1000試合出場:1965年4月17日 ※史上92人目
その他の記録

背番号

  • 33 (1953年 - 1958年、1969年)
  • 9 (1959年 - 1961年、1963年 - 1968年)
  • 8 (1962年)

脚注

関連項目

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