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堀井数男
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堀井 数男(ほりい かずお、1923年12月12日 - 2006年7月24日[1])は、大阪府東大阪市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ。
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経歴
日新商業学校卒業後、1943年に南海軍へ入団。1946年には打率.293をマークし、山本一人らと共に初優勝に貢献した。1951年には盗塁20を記録[2]。2リーグ分裂後は1952年に打率.297(リーグ10位)、1953年には打率.314(リーグ2位)をマークし[3]、2年連続でベストテン入りを果たすなどチームの中軸として活躍。強肩の左翼手として知られ、シーズン2桁補殺も9度記録。1951年は9補殺であるが、これが2桁に乗っていた場合、1947年-1955年に掛けて10年連続2桁補殺の快記録ができるところであった[4]。1955年8月21日の試合ではランニングホームランを放ち、これが決勝打となる[5]。1959年に現役を引退。
引退後は南海に残り1967年まで二軍打撃コーチを務めた後、1968年からはスカウトに転身。柚木進と名コンビを組み、藤田学・高柳秀樹らの獲得に関わった[6]。息子の堀井和人も南海に入団し、親子で選手とスタッフという関係になったこともあった。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 南海は、1944年途中に近畿日本(近畿日本軍)に、1946年にグレートリングに、1947年途中に南海(南海ホークス)に球団名を変更
表彰
記録
- 節目の記録
- 1000試合出場:1953年6月13日 ※史上20人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:3回 (1952年 - 1954年)
背番号
- 18 (1943年)
- 9 (1946年 - 1965年)
- 62 (1966年 - 1967年)
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脚注
関連項目
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