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堀口捨己
建築家 ウィキペディアから
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堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 1984年8月18日)は、日本の建築家。
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気象学者の堀口由己は兄。
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人物
佐野利器によって耐震力学が重視されていた当時の東大建築学科への反動と、ヨーロッパの新しい建築運動への憧憬から、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。
論文「利休の茶」で北村透谷賞を受賞。また歌人として、さらには日本庭園の研究家としても知られる。日本の建築と庭園の関係を「空間構成」としてとらえ、昭和戦前期より庭園に関する資料を収集し、1962年に神代雄一郎と共著で外国人向けに『Tradition of Japanese Garden』を、1965年に庭園論集『庭と空間構成の伝統』を出版、1975年に出版された自らの作品集の名称は『家と庭の空間構成』としている。
教授職を務めた明治大学では、同大工学部内に建築学科を創設したことでも知られる。
1984年8月18日死去。本人の意向により、その事実は公にされなかった。関係者の間ではうすうす死亡したのではないかと噂されていたが、1995年1月28日に開催された「堀口捨己生誕100周年記念行事」の際に初めて公にされた。
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経歴
- 1895年 岐阜県席田郡上保村に堀口泰一とけいの間の五男二女の末子として生まれる
- 1913年 旧制岐阜中学(現・岐阜県立岐阜高等学校)卒業
- 1917年 旧制第六高等学校第二部甲類卒業
- 1920年 東京帝国大学建築学科卒業、大学院に進み近代建築史を専攻、石本喜久治・山田守らと分離派建築会の運動を興す
- 1921年 平和記念東京博覧会(1922年開催)工営課技術員として第二会場池塔、動力機械館などを担当
- 1922年 東京帝国大学建築学科で助手を務める
- 1923年 ヨーロッパ留学(1924年まで)
- 1924年 清水組に入社(1925年まで)
- 1926年 第一銀行に入社
- 1927年 設計事務所を開設(1932年まで)
- 1932年 帝国美術学校教授
- 1936年 日本工作文化連盟設立(会長:黒田清)、理事長に就任
- 1944年 「書院造と数寄屋造の研究」により学位取得(工学博士)
- 1949年 明治大学教授(1965年まで)、後に工学部長
- 1957年 日本芸術院賞受賞[1]
- 1963年 紫綬褒章受章
- 1965年 神奈川大学教授(1970年まで)
- 1966年 宮中歌会始の召人を務める。勲三等瑞宝章
- 1984年 大森の自宅で死去
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その他
主な作品






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主な著作
- 『現代オランダ建築』(1924年)
- 『紫烟荘図集』(1927年)。復刻:ゆまに書房「叢書・近代日本のデザイン」、2013年
- 『現代建築に現はれたる日本趣味』(1932年)
- 『一住宅と其庭園』(1936年)
- 「茶室の思想的背景と其構成」(1936年)
- 「君台観左右帳記の建築的研究 室町時代の書院及茶室考」(1942年)
- 『草庭 建物と茶の湯の研究』白日書院(1948年)、のち筑摩書房、鹿島出版会「著作集」
- 『利休の茶室』岩波書店(1949年・復刊1995年)、のち「著作集」。日本建築学会賞(論文賞)
- 『利休の茶』岩波書店(1951年・復刊1995年)のち「著作集」。雑誌「思想」(1941年)に掲載時に北村透谷文学賞。
- 『桂離宮』(毎日新聞社、1952年)、佐藤辰三写真
- 『庭と空間構成の伝統』鹿島出版会(1965年)、のち「著作集」
- 『茶室研究』鹿島出版会「著作集」 (1969年)
- 『建築史』鹿島出版会「著作集」(1970年)
- 『書院造りと数寄屋造りの研究』鹿島出版会「著作集」(1978年)
- 『堀口捨己歌集』鹿島出版会「著作集」 (1980年)
- 『堀口捨己建築論集』岩波文庫(藤岡洋保[2]編・2023年)
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関連項目
脚注
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