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歌会始
和歌(短歌)を披露しあう「歌会」で、その年の始めに行うものを指す ウィキペディアから
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歌会始(うたかいはじめ)は、和歌(短歌)を披露しあう「歌会」で、その年の始めに行うものを指す。現在では、年頭に行われる宮中での「歌会始の儀」が特に有名。

概要
元々は、上代にて皇族・貴族等が集い和歌(短歌)を披露しあう「歌会」で、その年の始めに行うものを指す。
今日では宮中歌会始(後述)の他に、京都冷泉家(公家の流れを汲む)で行なわれているものが有名である。冷泉家では、狩衣や袿などの平安装束を身にまとい、数十名が集って行なわれるもので、京都の風物詩として、毎年マスコミ報道[1]、古文教科書(資料集)で紹介される。
この他に、一般の和歌教室(短歌会)で、講師や生徒が年始に歌を披露しあう集いを「歌会始」と呼ぶところもある。
宮中歌会始
要約
視点
歴史
起源は必ずしも明らかではないが、鎌倉中期には、『外記日記』に亀山天皇期の文永4年(1267年)1月15日に宮中で「内裏御会始」という歌会が行われたと記録されている。ただし、当時は作文始・御遊始(管弦)と合わせた一連の行事として捉えられて御会始(歌御会始)と呼ばれており、1日のうちに3つを行うのが通例と考えられていた。また年始に限らず、天皇や治天の君の執政開始後に開催される場合もあった。ただし、御会始そのものは室町時代に中絶しており、『晴和歌御会作法故実』(著者不明であるが、霊元上皇書写の国立歴史民俗博物館所蔵本がある)という書物によれば、後円融天皇の永和年間の和歌御会始を模範として後柏原天皇が明応10年(文亀元年/1501年)正月の月次歌会を独立した儀式として執り行ったことが記されており、これが歌会始の直接的起源であると考えられている[2]。江戸時代からはほぼ毎年開催され、少しずつ変化をしながら現在に至る。
近代においては、明治2年(1869年)に京都御所の小御所で行われたのが最初であった[3]。明治7年(1874年)には一般国民からの詠進も広く認められるようになり、明治12年(1879年)からは詠進歌も詠みあげられるようになった[3]。さらに明治15年(1882年)以降は、天皇の御製や一般の詠進歌が新聞や官報などで発表されるようになった。詠進歌の選考は宮内省に置かれた御歌所が行なった。士族出身ながらも宮中女官となった平尾鉐は18歳の時に歌の師である八田知紀の推薦で宮中に入り、皇后美子より、歌子の名を賜う[4] など、このころには歌の才を認められて重用される者も現れた。
歌御会始の題(指定されるテーマ)は勅題(ちょくだい)といわれる[5]。
昭和3年(1928年)には、歌会始の式次第が定められ、それまで「歌御会始」だったのが、「歌会始」に改称される。
昭和22年(1947年)より、現在のように皇族のみならず国民からも和歌を募集し、在野の著名な歌人(選者)に委嘱して選歌の選考がなされるようになった。それにともない、勅題はお題(おだい)といわれるようになり[6]、平易なものになった。これにより、上流社会の行事から一般の国民が参加できる文化行事へと変化を遂げた。
現在の歌会始
例年、お題として漢字一字が指定され、歌の中にこの字が入ることが条件となる(読み方は問わない)。9月末頃の締め切りまで、宮内庁が管轄して広く一般から詠進歌の募集を受け付ける。応募方法は基本的に毛筆で自筆し郵送するが、身体障害を持つ者のために代筆、ワープロ・パソコンでのプリント、点字での応募も可能である[7]。応募された詠進歌の中から選者が10作を選出する。選出された歌は「選歌」として、官報の皇室事項欄及び新聞等にも掲載される。選歌にならなかった場合も、佳作として新聞等に掲載されるものもある。
歌会始の儀は、かつては1月15日の成人の日に、現在は1月10日前後に皇居宮殿「松の間」にて行われ、「選歌」の詠進者全員や選者らが招かれる他、陪席者も多数招かれる。大まかな流れは以下の通り。
- 天皇・皇族が松の間に出御する(全員起立)。侍従と女官がそれぞれ、「御製」(おほみうた、天皇の歌)と「皇后宮御歌」(きさいのみやのみうた、皇后の歌)を捧持し、天皇・皇后の座の前の盆に置く。
- 披講(歌を詠み上げること)する披講所役は、司会にあたる読師(どくじ・1人)、最初に節を付けずに全ての句を読み上げる講師(こうじ・1人)、講師に続いて第1句から節を付けて吟誦する発声(はっせい・1人)、第2句以下を発声に合わせて吟誦する講頌(こうしょう・4人)からなり、松の間の中央の席で式次第を取り仕切る。これらの所役は「披講会」という団体に属する旧華族の子弟が宮内庁式部職の嘱託として務める。披講は綾小路流で行われる。講師が「年の始めに、同じく、(お題)ということを仰せ事に依りて、詠める歌」と言い、披講が始まる。
- まず、以下の順番で詠進歌が披講される。該当者は披講の際は起立し、天皇に一礼する。
- 皇后宮御歌を披講。披講前に読師が皇后の前に進みでて色紙を拝受する。披講の前には講師が改めてがその年のお題を読み上げ、「…ということを詠ませ賜える皇后宮御歌」というと、天皇以外の出席者が起立する。皇后宮御歌は2回[注釈 2]繰り返して講ぜられる。なお、皇太后が健在時には、皇后宮御歌に先立って「皇太后宮御歌」(おほきさいのみやのみうた)が講ぜられる。
- 御製を披講。披講前に読師が天皇の前に進みでて色紙を拝受する。講師の「…ということを詠ませ賜える御製」に合わせて天皇以外の出席者が起立、御製を拝聴する。御製は3回[注釈 3]繰り返して講ぜられる。
- 天皇・皇族が還御する。
儀式次第は、NHKの総合テレビ[注釈 4]で、全国に生中継される。アナウンサー1名が式次第を実況し、披講の最中に詠まれている歌の背景などを解説する。式次第の終了後、番組の最後に来年度のお題が発表され、詠進の方法もアナウンスされる。当日のニュースでもその模様や詠まれた歌が紹介される場合がある。
披講所役による朗詠そのものの持つ「質的な魅力」に加え、各地の国民の詠進歌が披露されるという全国大会のような興味、また、天皇・皇后をはじめ皇族の詠進歌には、心情・近況が示唆されることもあり、注目を浴びる宮中行事の一つである。
歌会始の選者
毎年、応募作品の中から佳作を最終的に選考する歌人。民間の著名な歌人の中から5人が選出され[注釈 5]、引退や死去等で欠員が出た場合に新たに選者を補充する形をとっている[注釈 6]。
召人
- 1948 千葉胤明・佐佐木信綱
- 1949 武島又次郎(羽衣)・遠山英一
- 1950 金子雄太郎(薫園)・鳥野幸次
- 1951 太田貞一(水穂)・岡三郎(麓)
- 1952 (喪)
- 1953 新村出・會津八一
- 1954 香取秀治郎(秀真)・小杉國太郎(放庵)
- 1955 川合芳三郎(玉堂)・柳田國男
- 1956 湯川秀樹・谷崎潤一郎(欠席)
- 1957 金田一京助・窪田通治(空穂)
- 1958 牧野英一・尾山篤二郎
- 1959 安田新三郎(靫彦)・佐藤春夫
- 1960 石坂泰三・入江俊郎
- 1961 中川一政・佐藤達夫
- 1962 中村孝也・上山英三
- 1963 土屋文明・高田保馬
- 1964 花田大五郎・高村豊周
- 1965 武井大助・久保田貫一郎
- 1966 清水秀・堀口捨巳
- 1967 南原繁・堀口大學
- 1968 松山茂助
- 1969 高木市之助
- 1970 久松潜一
- 1971 内藤濯
- 1972 高崎正秀
- 1973 中西悟堂
- 1974 森本治吉
- 1975 坂口謹一郎
- 1976 高崎英雄
- 1977 宇田道隆
- 1978 井出一太郎
- 1979 犬養孝
- 1980 佐藤朔
- 1981 奥田元宋
- 1982 安東聖空
- 1983 桑田忠親
- 1984 山本健吉
- 1985 宇野信夫
- 1986 宮本顯一
- 1987 直木孝次郎
- 1988 井上靖
- 1989 (喪)
- 1990 飯島宗一
- 1991 梅原猛
- 1992 長沢美津
- 1993 吉田正俊
- 1994 中西進
- 1995 五島茂
- 1996 加藤克巳
- 1997 齋藤史
- 1998 橋元四郎平
- 1999 藤田良雄
- 2000 可部恒雄
- 2001 上田正昭
- 2002 扇畑忠雄
- 2003 酒井忠明
- 2004 大岡信
- 2005 清水房雄
- 2006 森岡貞香
- 2007 大津留温
- 2008 宮英子
- 2009 谷川健一
- 2010 武川忠一
- 2011 安永蕗子
- 2012 辻井喬
- 2013 岡野弘彦
- 2014 芳賀徹
- 2015 春日真木子
- 2016 尾崎左永子
- 2017 久保田淳
- 2018 黒井千次
- 2019 鷹羽狩行
- 2020 栗木京子
- 2021 加賀乙彦
- 2022 菅野昭正
- 2023 小島ゆかり
- 2024 栄原永遠男
- 2025 三田村雅子
勅題・お題一覧
明治・大正時代
昭和時代
平成時代
令和時代
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影響
茶道では初釜に干支とともに勅題にちなむ茶道具が選ばれる[11]。また和菓子店では新年を祝う菓子として勅題菓子(お題菓子)が制作・発売される[12]。
盗作疑惑問題
1962年1月15日、宮内庁は入選歌を盗作の疑いで取り消した。1963年にも同様の事件があった。
脚注
関連項目
関連文献
外部リンク
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