トップQs
タイムライン
チャット
視点
増田忠俊
日本のサッカー選手 ウィキペディアから
Remove ads
増田 忠俊(ますだ ただとし、1973年12月25日 - )は、静岡県庵原郡蒲原町[2](現 静岡市清水区蒲原)出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。PRISM所属。
![]() | ツイッター・テレビ番組での発言は、別の信頼できるメディアによって言及されない限り、出典として用いないで下さい。Wikipedia:検証可能性により除去されます。 |
Remove ads
経歴
1992年に静岡学園高校から創立直後の鹿島アントラーズに加入。1994年からトップチームで出場するようになり、ドリブルや二列目からの飛び出し等、チャンスメーカーとして活躍。多くのタイトル獲得に貢献した[4]。また1998年には日本代表に選出され、2月19日のオーストラリア戦で代表デビューを飾った[2]。また3月4日のダイナスティカップの香港選抜戦に出場、前半40分に得点を決めている(相手が選抜チームのため、国際Aマッチ得点とは認められず)。しかし同年8月、Jリーグ1st第17節広島戦で右両下腿骨を複雑骨折[2][4][5]。長期のリハビリを経て翌1999年9月に復帰した[2]。
2000年は開幕からコンディションを維持していたが[2]、試合終盤に入ってからの途中出場ばかりで(小笠原満男との交代が多かった)[6] 持ち味を発揮する間が無かったことから[7]、自身の向上のため[8] 移籍を決意[2]。
2000年6月よりFC東京へ期限付き移籍。シーズン途中、しかも自身初の移籍だったが、同じく鹿島から移籍加入した内藤就行の存在もあって早々とチームにフィット[9]。負傷欠場した佐藤由紀彦に代わって右サイドハーフに配されると[10]、的確なボール保持で[11] 中盤のアクセントとなり[2] 攻撃のリズムを変えるオプションとして貢献[1]。右サイドバック内藤との好連携も見せた[12]。大熊清監督からは、突破力では佐藤に劣るもののFWへのパスによるチャンスメイクで勝ると評価され、相手の出方や味方FWの調子を加味して使い分けられた[10][11]。2001年に完全移籍加入したが[13]、この年は佐藤が重用されたために出場機会を減らした[14]。
2002年、ジェフユナイテッド市原へ完全移籍[14]。4年ぶりとなるリーグ戦複数得点を挙げた。2003年からは柏レイソルへ移籍加入[15]。3シーズン奮戦を続けたが、チームは2005年にJ2降格を喫し同年限りで退団。
2006年、大分トリニータに移籍[16]。20歳頃から続いていた[5] という腰痛に苦しめられる中でも[4] 試合に向けて念入りに調整し、チーム最年長選手としてサッカーへ取り組む姿勢を若手選手へ示した[5]。同年11月20日に現役引退を表明[17]。
2007年3月から、スーパーJチャンネルおおいたのコーナーで大分トリニータの試合分析を行った他、大分トリニータスクールコーチ、CSのサッカー中継(主に大分銀行ドーム開催試合を担当)解説者などを務めている。
2008年3月よりHOYO Atletico ELAN(現:ヴェルスパ大分)の監督に就任したが、翌2009年9月に成績不振を理由に退任した[18]。
2014年、自身が代表を務めるサッカースクール「M.S.S.」を発足。
Remove ads
所属クラブ
個人成績
- その他の公式戦
- 1996年
- サントリーカップ 2試合0得点
- 1997年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1998年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2004年
- J1・J2入れ替え戦 2試合0得点
- 2005年
- J1・J2入れ替え戦 1試合0得点
- 国際大会
- アジアクラブ選手権 7試合1得点
タイトル
クラブ
- 鹿島アントラーズ
代表歴
試合数
- 国際Aマッチ 1試合 0得点[15] (1998年)
出場
指導歴
- 大分トリニータ スクールコーチ
- 2007年 - 2009年9月 HOYO Atletico ELAN
- 2007年 - 2008年3月 コーチ
- 2008年 - 2009年9月 監督
- 大平山AFC 特別コーチ[19]
- FUT6 テクニカルコーチ[20]
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads