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佐藤由紀彦
日本のサッカー選手 ウィキペディアから
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佐藤 由紀彦(さとう ゆきひこ、1976年5月11日 - )は、静岡県富士市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。
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来歴
要約
視点
選手時代
小学1年生の時にサッカーを始める[5][6]。1992年に清水市商高へ進学。柔らかいボールタッチと卓越したパスセンスを武器に[7]、1993年の高円宮杯及び選手権を制した。1994年には背番号10を付け、総体優勝と高円宮杯を連覇。高円宮杯では両大会とも自身の得点が決勝点となった[8]。さらに国体でも連覇を経験[3]。
1995年に高校を卒業し、鳴り物入りで[9]清水エスパルスに入団。しかし、クラブにとって絶対的存在のMF澤登正朗とポジションが重なったことに加え[10]、「地元出身のスター候補」という周囲からの扱いも重荷になり[11]、ベンチ入りも中々出来ずにいた。実戦機会を増やす為にブラジルのグレミオFBPAに長期留学に行かされるなど下積み時代が続き、サッカーの楽しさを感じられなくなりつつあった[9]。
1998年に自ら志願して[9]ジャパンフットボールリーグのモンテディオ山形に期限付き移籍。石崎信弘監督の下で攻撃の中心としてトップ下に据えられ、能力を開花させた[10]。ゲームメーカー兼フィニッシャーとして山形を開幕からシーズン中盤まで首位快走させる原動力となり、同年のJFL新人王およびベストイレブンを受賞した。
石崎は翌1999年より大分トリニータへと転任することになり、大分移籍、清水復帰、さらに他数クラブからの獲得の打診と争奪になったが[10][9]、J1昇格を目指す熱意とサポーターの熱さに惹かれ[12]、清水に籍を残したままJ2のFC東京へと期限付き移籍。大熊清監督からは縦への突破力とクロス精度を買われ[10]、山形で務めた司令塔役から右サイドのアタッカーへと転向することになった[11]。当初はプレーエリアや視野の違いに苦しんだが[10]、大熊やサポーターに認められるべく懸命に新ポジションでのプレーを続けて[12]攻撃を引っ張り、J1昇格が懸かる同年のJ2最終節では自身の右足クロスから加賀見健介の決勝点を導いた[9]。また、この年行われたナビスコカップではニューヒーロー賞に輝いた[注 1]。翌2000年に向けてはレンタル元の清水に戻る選択肢もあったが、フロント及びサポーターの熱心な引き留めを受けFC東京へと完全移籍した。この頃はまだ一般的な知名度が高くなかったため、国立競技場での選手紹介の際にスタジアムDJが「斉藤ユキヒコー!」と名前を間違えた事もあった。
2001年、新加入のMFケリーに一時ポジションを奪われたが[13]、全体練習後に長澤徹コーチの下でクロスを「常人ではありえないほど[12]」繰り返し蹴り込んで[14][15][5]向上を追及し[16][17]、5月になって布陣を変更してからはケリーがトップ下、佐藤が右サイドに入る形で先発に復帰[注 2]。長澤の助言を受けてオフ・ザ・ボールの動きも大きく向上し[14]、ケリーとのコンビネーションは、自ら「運命的な出会い」とコメントする程[18] 絶妙なものとなった[13]。同年9月にはフィリップ・トルシエ監督率いる日本代表候補に初選出[19]。リーグ戦終了後には優秀選手賞として表彰された[20]。
2002年は負傷で出遅れていたところ[21]、新監督の原博実は横浜F・マリノスからレンタル移籍で石川直宏を獲得。佐藤はシーズン後半に復帰したが石川の重用は続き、右サイドのポジションを奪い返せずにいた。同年末に入籍[22]。
2003年は複数クラブからオファーを受ける中[5]、横浜FMの「優勝以外は失敗」という目標提示を意気に感じて[12][5]同クラブへ期限付き移籍[23]。岡田武史監督の下でレギュラーに定着し、右サイドからFW久保竜彦らへ高精度のクロスを放って[24] アシストを量産[25][12][26]。クラブのJ1ファーストステージ・セカンドステージの完全制覇に貢献した。シーズン途中には石川と入れ替わる形で[27] 完全移籍へと移行[28]。しかし、2004年シーズン後半になると、田中隼磨の台頭によって控えに回ることも増えていた。
2005年には古巣の清水に移籍したが[29][3]、直後の負傷によって出遅れ、その後も若手の台頭もありなかなか出番がない状況が続いた。
2006年6月、恩師石崎[1] が監督を務めるJ2柏レイソルへ期限付き移籍[30]。先発出場は限られたが、同年のリーグ戦全試合にベンチ入りし[31][32]、FC東京在籍時以来2度目となるJ1昇格に貢献[26]。12月には柏へ完全移籍することが発表された[33]。石崎は佐藤を右サイドではなく、セントラルミッドフィールダーとしての適性を買っており、柏では山形でも務めていたトップ下や、ボランチでも起用された。2007年シーズンをもって契約満了となり退団。
2008年、J2ベガルタ仙台へ移籍[34][35]。山形とのダービーマッチで移籍後初得点を挙げ[36]、持ち前の高精度のキックで[37] 短時間でも流れを引き寄せて得点につなげるジョーカーとして[38] 出場を続けた。同年クラブはJ1との入れ替え戦にまで進出したもののここで敗退しJ1昇格を逃した。12月にクラブから契約非更新が通知され、1年での退団を余儀なくされた[39]。仙台を去る際に残した言葉は次のようなものだった。「1年という短い間でしたが、喜びも哀しみも常にサポーターと共に味わえた自分にとって忘れられない2008年でした。今年からJFLのV・ファーレン長崎で再びサッカーが出来るチャンスをいただけました。この喜びをプレーで表現して、念願のJ2昇格に少しでも貢献出来たらと思います。最後にベガルタ仙台をこれからも愛し続けて下さい!ありがとうございました。」
Jリーグ合同トライアウト参加を経て[6]、2009年3月にJリーグ準加盟クラブであるJFLのV・ファーレン長崎へ加入[40][41]。当初はDF(センターバック)に配されていたが前向きに取り組み[6][42]、本来の右サイドに戻ってからは得意のクロスで健在ぶりを見せた[2]。シーズン中盤にはゲームキャプテンを任され、2010年より正式に主将に就任[43]。スタジアムの不備によるJリーグ昇格断念など困難が続いたが[2]、チームメートからは厚い信頼を寄せられ[2]奮戦を続けた。2011年にB級コーチライセンスを取得[44]。2013年よりクラブはJ2昇格を果たし、自身5年ぶりのJリーグでのプレーとなった。同年の出場機会は僅かとなったが、クラブにとってその存在は大きく[45] 精神面でも牽引を続けた。2014年限りで20年間に渡った現役を引退[4]。
指導者時代
2015年、13年ぶりに[46] 古巣FC東京へ復帰し、普及部コーチに就任[47][48]。
2016年シーズン途中から、FC東京U-15むさしのコーチに就任[49]。2019年にはFC東京トップチームのコーチとなった[50]。
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人物
- 2012年現在4児の父。
- 率先して練習に取り組む姿はチームメートを惹きつけ[26]、FC東京在籍時のコーチであり移籍後も親交のある長澤徹からは、「サッカーに熱く、ひたすら練習する。しかも若手を引き連れて練習するため、(彼が行くチームは)どのチームもチーム力が上がり、力を落とさずに1シーズンを戦い抜ける」と評されている[52]。
- 実家は洋食料理店を営んでおり、子供の頃の将来の夢はシェフだった。インタビュー等で「もしサッカー選手になっていなかったら?」という問いには「100%、コックさん」とも答える[16]。
- 端正な顔立ち、右サイドから正確なクロスを上げる事から、FC東京在籍時に「東京のベッカム」、2003年に移籍した横浜F・マリノス所属時は「ハマのプリンス」とよばれた[53]。
- 甘いマスクの持ち主で、サポーターからも人気があるが、出場機会を求めてJ2や新旧JFLを含めて7クラブを渡り歩いた苦労人であり、ヒーローインタビューにおいて「J2は魂が磨かれる場所」という言葉を残した[54][55]。
- 2012年1月に第4子となる男の子が誕生。前年に亡くなった親友(松田直樹)の名を付け[56]、2013年2月23日に放送された『FOOT×BRAIN』内で、漢字違いの「なおき」という名前が表示されている。
- 横浜FM在籍時のチームメートで同い年の松田直樹、安永聡太郎と親友である[57]。2002年に横浜FM移籍を決めかねている際には、松田から「来年優勝しよう」「お前が来たら絶対優勝できる」と説得された[12]。2011年10月3日に安永とともに「一般財団法人松田直樹メモリアル」を設立。現役を続ける理由の一つとして、松田よりも1試合でも多く出場し、1年でも長くサッカーをやってやると挙げていた[58]。出場数は松田には及ばなかったが、松田よりも長く現役プロサッカー選手として在り続け、サッカー人生20年にあたる2014年に引退した。
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所属クラブ
- ユース経歴
- 富士JFC (富士市立富士第一小学校)[3]
- 1989年 - 1991年 東海大学第一中学校
- 1992年 - 1994年 清水市立商業高等学校
- プロ経歴
個人成績
その他の公式戦
- 2004年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2008年
- J1・J2入れ替え戦 1試合0得点
その他の国際公式戦
- 2004年
- A3チャンピオンズカップ 2試合0得点
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代表歴
- 1994年 U-19日本代表 - AFCユース選手権
- 2001年 日本代表候補
指導歴
監督成績
タイトル
クラブ
- 清水市立商業高等学校
- 高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会 : 2回 (1993年、1994年)
- 全国高等学校サッカー選手権大会 : 1回 (1993年)
- 全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会 : 1回 (1994年)
- 横浜F・マリノス
- V・ファーレン長崎
- 日本フットボールリーグ: 1回 (2012年)
- FC東京U-18
代表
- 静岡県選抜
個人
- 全日本少年サッカー大会 優秀選手 (1988年)[3]
- 全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会 優秀選手 (1994年)[3]
- ジャパンフットボールリーグ 新人王 (1998年)
- ジャパンフットボールリーグ ベストイレブン (1998年)
- ナビスコカップ ニューヒーロー賞 (1999年)
- Jリーグアウォーズ 優秀選手賞 (2001年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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