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宮里太
日本の元プロ野球選手 ウィキペディアから
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宮里 太(みやざと ふとし、1965年3月7日 - )は、沖縄県中頭郡美里村(現・沖縄市)出身の元プロ野球選手(外野手)。
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来歴・人物
要約
視点
都城高では、捕手として1982年夏の甲子園に出場。同期のエース中島良浩(西武にドラフト外入団)を擁し、新潟工業高を4-3、坂出商業高を5-0で降し3回戦に進出するが、この大会で優勝した池田高に3-5で敗れる。
高校卒業後は専修大学に進学するが、東都大学リーグでは1983年秋季リーグで二部に降格するなど低迷。しかし攻守の要としてチーム再建に尽力し、同期の関清和投手の好投もあり1985年秋季リーグで二部優勝、翌季から一部に復帰した。在学中の一部優勝には届かなかったが、1986年の日米大学野球選手権大会日本代表となり、同年秋季リーグではベストナイン(捕手)に選出された。一部リーグ通算25試合に出場、95打数31安打、打率.326、1本塁打、8打点を記録。他の大学同期に畝龍実、西俊児がいる。
大学卒業後は、社会人野球の熊谷組に入社。伊藤敦規、鈴木哲、佐藤和弘、プロでも同僚となる横谷彰将らがいた。チームでは外野手としても起用され、1987年から2年連続で都市対抗野球に出場。1987年の第14回アジア野球選手権大会日本代表に選出された。
1988年のプロ野球ドラフト会議で大学の先輩にあたる古葉竹識監督率いる横浜大洋ホエールズから2位指名を受け入団。
1年目の1989年5月から代打兼第三捕手として一軍に定着するが8月以降は外野手での出場が多くなる。2年目の1990年には完全に外野手に転向し48試合に先発出場、打率.309の好成績を残した。翌1991年は外野のレギュラーに定着、左翼で54試合、中堅で41試合に先発出場し規定打席にも到達し打率.291の好成績を残す。しかし長打力の無さがネックとなり翌1992年は新外国人であるラリー・シーツの控えに回る。1993年以降もグレン・ブラッグス、福岡ダイエーホークスから移籍してきた畠山準が外野のレギュラーに定着し、また若手の佐伯貴弘、波留敏夫、鈴木尚典らが育ってきたこともありレギュラー復帰はならず守備固めや左の代打としての起用が主となる。なお畠山準は前記1982年夏の甲子園で敗れた池田高のエースであった。
1993年には球団の選手会が組織され選手会長に就任している。同年7月の阪神戦の8回裏、ベンチ入り最後の捕手秋元宏作の代打として起用されそうになった。宮里は、近藤昭仁監督に「捕手の打順ですよ」と言ったが、「お前がそのままマスクをかぶるんだ」と言われ[1]、代打で同点二塁打を放った後、次の回からは、1年目に8試合だけ起用された捕手を4年振りに務めた。結果は、佐々木主浩とのバッテリーで3三振を奪い、チームもサヨナラ勝ちであった。1997年限りで現役を引退。大洋時代の応援歌の原曲は「小さな世界」だった。
引退後は、しばらく球団職員として横浜に残留し、その後はスコアラーなど裏方の職務をこなした。
引退から11年後の2008年に自由契約とされた。その後故郷である沖縄へ帰り、同年2月よりガス機器の卸会社に課長代理として入社した。その一方で野球アカデミーコザ塾の講師として沖縄の野球少年を指導している[2]。2011年に沖縄でプロ野球公式戦が開催された際に、『RBCiラジオ エキサイトナイター・横浜対広島』(沖縄開催試合)の解説を担当した。また、2016年からは沖縄の社会人野球・クラブチームのビッグ開発ベースボールクラブでコーチとして選手たちを指導していた。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更
年度別守備成績
記録
背番号
- 41 (1989年 - 1990年)
- 7 (1991年 - 1997年)
アマチュア時代の戦績
- 1982年 - 第64回全国高等学校野球選手権大会。
- 1回戦 - 新潟県立新潟工業高等学校戦、4対3で勝利。
- 2回戦 - 香川県立坂出商業高等学校戦、5対0で勝利。
- 3回戦 - 徳島県立池田高等学校戦、3対5で敗戦。
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脚註
関連項目
外部リンク
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