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小川清一
日本のプロ野球選手 (1952-) ウィキペディアから
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小川 清一(おがわ せいいち、1952年7月28日 - )は、大分県別府市[1]出身の元プロ野球選手(投手)。登録名を、小川 精一とする資料もある[2]。
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来歴・人物
大分商業高校では1970年、エースとして春季九州大会決勝に進むが、宮崎日大高に延長12回裏サヨナラ負け。同年夏は中九州大会決勝で津久見高の橘健治らに投げ勝ち、第52回全国高等学校野球選手権大会に出場。この大会では、1回戦の九州工(福岡)戦で市橋秀彦投手と延長15回の投手戦を展開、5-1で勝利する。2回戦の日大一高(東京)戦でも、保坂英二投手に投げ勝ち完投勝利。しかし準々決勝ではPL学園(大阪)の新美敏、田代克業(中大-本田技研)両投手の継投・好投に屈し、0-7で完封負けを喫した[1]。同年秋の岩手国体では、決勝でPL学園に1-2で惜敗し、準優勝に留まる。住友金属に内定していたが同年のドラフト会議で、阪神タイガースの6位指名を受け、入団[1]。
3年目の1973年に一軍に上がり、翌1974年は中継ぎで22試合に登板した。同年暮れ、鈴木皖武・上辻修・森山正義・平山英雄と共に、池辺巌・井上圭一との5-2の交換トレードでロッテオリオンズに移籍[1]。オリオンズでも主に中継ぎとして活躍し、1975年には初勝利を記録。1977年には4月から6試合に先発としても起用される。1979年オフ、小俣進・庄司智久・田村勲との交換トレードで古賀正明と共に3チーム目の読売ジャイアンツに移籍するが、登板機会に恵まれず[1]、1980年限りで現役引退。その後もチームに残り、1年ほど打撃投手を務めた。
右オーバースロー、速球主体の本格派でストレートとカーブが得意球、スライダー、シュート、パームボールも投げた。但し、パームボールについては阪神時代に小山正明より教わったが、実戦で生かされないままだった。
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詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- 初登板:1973年4月25日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、7回裏から5番手で救援登板・完了、2回無失点
- 初先発出場:1975年4月12日、対近鉄バファローズ前期1回戦(日本生命球場)、6番・指名打者で先発出場 ※偵察メンバー、ジム・ラフィーバーに交代
- 初勝利:1975年4月22日、対太平洋クラブライオンズ前期4回戦(平和台球場)、6回裏2死から4番手で登板、1回1/3無失点
- 初先発登板:1975年6月18日、対日本ハムファイターズ前期11回戦(後楽園球場)、1回0/3を3失点で敗戦投手
- 初先発勝利:1976年8月24日、対日本ハムファイターズ後期7回戦(川崎球場)、8回2失点
背番号
- 54(1971年 - 1974年)
- 45(1975年 - 1976年)
- 11(1977年 - 1979年)
- 46(1980年)
- 92(1981年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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