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小林章良
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小林 章良(こばやし あきよし、1923年9月22日 - 2002年[1]12月13日)は、兵庫県神戸市[2]出身のプロ野球選手(捕手・内野手)。
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来歴・人物
滝川中時代は、1941年の春の甲子園に捕手として出場し、エースの別所毅彦とバッテリーを組む[2]。準々決勝で岐阜商業で対戦した際、左肘骨折を押して投げ続けた別所が延長12回途中で降板すると、投手経験がなかった小林が代わって登板。しかし、延長14回二死満塁で内野安打を打たれてサヨナラ負けを喫した[3]。
1943年に朝日軍へ入団[2]。退団した伊勢川真澄に代わって正捕手となり、打率.203を打ってリーグ22位に入る。戦後の1946年にパシフィック(朝日軍から改名)に復帰するが、同じく復帰した伊勢川に阻まれてわずか7試合の出場に終わり、退団した。
その後、鐘紡高砂を経て、1950年セ・パ両リーグが分立すると、松竹ロビンス(パシフィックから改名)へ復帰[2]。1951年から一塁のレギュラーを獲得し、打率.299(リーグ11位)を記録した。1952年は四番打者も担った。1953年から球団合併した大洋松竹ロビンスでプレー。ここでも、外野手に回った藤井秀郎に代わって正一塁手となり、主に二番打者として試合に出場した。1957年までレギュラーを守り、1958年に現役を引退した[2]。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 朝日(朝日軍)は、1946年にパシフィックに、1947年に太陽(太陽ロビンス)に、1948年に大陽(大陽ロビンス)に、1950年に松竹(松竹ロビンス)に球団名を変更
- 洋松(大洋松竹ロビンス)は、1956年に大洋(大洋ホエールズ)に球団名を変更
記録
- 1000試合出場:1958年9月29日 ※史上46人目
背番号
- 15 (1943年)
- 7 (1946年)
- 26 (1950年 - 1952年)
- 12 (1953年 - 1958年)
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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