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伊勢川真澄
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伊勢川 真澄(いせがわ ますみ、1921年6月30日 - 1996年7月26日[1])は、和歌山県 [1]紀の川市出身のプロ野球選手(捕手)。
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経歴
粉河中学を卒業後、1940年にライオン軍(1941年から朝日軍)へ入団。新人ながら正捕手・広田修三の控えとして49試合に捕手として出場し、1941年・1942年は正捕手を務めた。戦後の1946年に旧朝日軍の選手が独立してゴールドスターを立ち上げる中、伊勢川は旧朝日軍の流れを汲むパシフィックに参加する。ここでも引き続き正捕手を務め、1946年は打率.230(リーグ37位)ながら、主砲の森下重好(54打点)に次ぐ51打点を挙げ、1947年は打率.257(リーグ19位)を記録している。
1948年に太陽ロビンス(パシフィックから改名)監督の藤本定義が金星スターズの監督に移ると、ヴィクトル・スタルヒンとともに藤本に従って金星に移る。この年は門前真佐人と交互にマスクを被るが、1949年に門前が大阪タイガースに戻ると、以降伊勢川は正捕手の地位を守った。この間の1950年にはパ・リーグで10位となる打率.296と自身唯一の二桁本塁打である13本塁打を記録している[1]。
1953年に阪急ブレーブスへ移籍し、この年正捕手として活躍。オールスターゲームにも出場した[1]。1954年に山下健に正捕手を譲って控えに回ると、以降は徐々に出場機会を減らし、1958年は出場機会がなく、この年限りで引退。翌1959年より1968年まで阪急のバッテリーコーチを務めた[1]。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- ライオン(ライオン軍)は、1941年に朝日(朝日軍)に、1946年にパシフィックに、1947年に太陽(太陽ロビンス)に、1948年に大陽(大陽ロビンス)に球団名を変更
- 金星(金星スターズ)は、1949年に大映(大映スターズ)に球団名を変更
記録
- 節目の記録
- 1000試合出場:1953年8月5日 ※史上21人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1953年)
背番号
- 22 (1940年 - 1942年、1946年 - 1947年、1949年 - 1958年)
- 14 (1948年)
- 62 (1959年、1962年 - 1968年)
- 32 (1960年 - 1961年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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