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山本樹
日本の野球指導者・元選手 ウィキペディアから
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山本 樹(やまもと たつき、1970年8月31日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(投手)・野球指導者。
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来歴・人物
岡山県立玉野光南高等学校では同期の山原和敏との両輪で3年春に中国大会優勝[1]。龍谷大学へ進学。大学時代には、関西六大学リーグの公式戦で、通算10勝9敗の成績を残した。1992年度ドラフト会議で、ヤクルトスワローズから4巡目指名を受けて入団。
ヤクルト投手時代
1996年から左の先発要員として一軍に定着。谷間の先発からショートリリーフまでこなす便利屋的存在だった。
1998年以降は中継ぎに専念し素質が開花。クローザーの高津臣吾につなぐまでの絶対的なセットアッパーとして、勝ち試合の7回から8回にかけての1~2イニングを中心に登板を重ねた。マウンド度胸が強かったことから、左の強打者と対戦することも多く、読売ジャイアンツの4番打者だった松井秀喜とは数々の名勝負を繰り広げた[2]。
2001年の日本シリーズ進出にも大きく貢献した。
2002年に左肩を故障。それまでの武器であった速球で140km台後半のスピードが出なくなったことから、変化球中心の技巧派投手に転じるとともに、投球フォームをオーバースローからスリー・クォーター気味に変更した。
2003年に一軍に復帰すると、ワンポイントリリーフとしてある程度の成績を残した。
2004年以降は成績が下降。
戦力外を通告された後も現役続行を希望したため、2005年の12球団合同トライアウトに参加。さらに、左腕投手の不足に悩まされていた横浜ベイスターズの入団テストを受けた。しかし、いずれも採用に至らなかったことから現役を引退した。なお、同年末にTBSテレビで放送された『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』では、山本への密着取材を通じて現役引退を決意するまでの経緯を紹介していた。
指導者時代
2008年1月に、母校・龍谷大学の投手コーチに就任。2012年12月から監督に昇格する[3]。2014年には、チームを関西六大学リーグ・春季リーグ戦の優勝および全日本大学野球選手権への出場に導いた[4]。監督へ昇格した後には、選手からの信頼を得るべく、ヤクルト時代の監督・野村克也に倣ってミーティングを重ねた[2]。2017年限りで龍谷大学監督を退任[5]。
2024年は京都府にある島津製作所硬式野球部のコーチを務めている。
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詳細情報
年度別投手成績
記録
- 初登板:1993年8月5日、対阪神タイガース16回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回裏に2番手として救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:同上、9回裏にジム・パチョレックから
- 初先発:1993年9月4日、対読売ジャイアンツ23回戦(明治神宮野球場)、1回3失点で敗戦投手
- 初セーブ:1996年5月8日、対横浜ベイスターズ6回戦(横浜スタジアム)、8回裏1死に救援登板・完了、1回2/3を無失点
- 初勝利・初完投勝利・初完封勝利:1996年6月1日、対阪神タイガース10回戦(千葉マリンスタジアム)
- 初ホールド:2005年4月13日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、7回裏2死に4番手として救援登板、1/3回無失点
背番号
- 45 (1993年 - 2005年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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