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岡林洋一
日本の元プロ野球選手 ウィキペディアから
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岡林 洋一(おかばやし よういち、出生名「岡林 フェリッペ 洋一」[要出典]。1968年4月11日 - )は、パラグアイ・アルトパラナ県イグアス市出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。現在は東京ヤクルトスワローズのスカウトを務める[1]。
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来歴
要約
視点
プロ入り前
パラグアイの日系人移住地であるイグアス居住区で生まれ育つ[2]。中学3年(14歳)時に両親の出身地である高知県香美郡へ移り住んだ[3]。
高知商業高等学校では、2年時の1985年にエース中山裕章の控え投手として第67回全国高等学校野球選手権大会に出場。3年時の1986年にもエース兼主将として第68回全国選手権に出場し、ベスト8[3]。近藤真一擁する享栄と対戦して勝利している。
1987年4月に専修大学に入学。3年時の1989年東都大学野球春季リーグ戦で6勝1敗を挙げ、史上最多となる31回目の優勝にエースとして貢献し、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインに選ばれた[3]。リーグ通算62試合に登板し、28勝18敗、防御率1.85、248奪三振[3]。チームメイトに杉山賢人、武藤潤一郎、町田公二郎がいた。
ヤクルト時代
1991年シーズンのオープン戦でルーキー大賞を受賞。シーズンでも抑え投手として活躍し、12勝6敗12セーブを挙げる[4]。
1992年シーズンは、開幕から先発として活躍。9月からは抑えに回り、9月11日の対阪神タイガース戦では、7回から登板し、途中40分近い中断もありながら15回まで9イニングを“完封”した(当時は延長15回制で、引き分けの場合は後日再試合、というルール)[5]。さらに、9月29日の広島戦では9回二死同点に追いつかれそこから延長14回途中(前田智徳に本塁打を打たれサヨナラ負け)まで投げ切った(9月から抑えでの成績は10試合2勝3敗防御率2.03を記録、完了10回ながらセーブは1つも記録できず投球回は26回2/3だった)。10月6日に首位阪神との直接対決で8月30日以来約1か月ぶりの先発登板、広沢克己の本塁打による1点を守り抜いて仲田幸司に投げ勝つなど、14年ぶりのリーグ制覇に貢献。西武ライオンズとの1992年の日本シリーズでは、第1・4・7戦に先発登板し[6]、いずれも完投し、敢闘選手賞受賞[7]。延長戦が2試合あったため、30イニング、430球を投げ抜いた[8]。日本シリーズで3完投以上を記録したのは、1964年のジョー・スタンカ以来28年ぶり4人目、投球回数30回は1959年の杉浦忠以来33年ぶりであった。シリーズ3試合を通して防御率1.50、1勝2敗の成績を残した。
1993年シーズンも開幕から先発として登板するも、6月10日の対巨人10回戦で完封勝利の5勝目(4敗)を挙げたのを最後に次第に負けが先行した。7月から約2か月故障離脱。チームはリーグ優勝、日本シリーズも制したが登板がなかった。
1994年シーズンは初先発が4月30日の対横浜戦と出遅れたものの、規定投球回数に達し、チーム最多の11勝を挙げた。
1995年シーズンには自身初の開幕投手を務めたが、8月に右肩と右膝を痛め、戦線離脱[3]。オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズも登板がなく、同年のシーズンオフの11月に故障箇所を手術。
1996年シーズンはプロ入り初の一軍登板なしに終わった[3]。
1997年シーズンは一軍開幕ローテーションに入り、4月9日のシーズン初登板で2年ぶりの勝利を挙げる。しかしシーズン通して勝ち星はこの1勝にとどまり、チームはリーグ優勝・西武との日本シリーズでもチームが日本一を果たしたがこのシリーズでも登板はなかった。
1998年シーズンは一軍登板なし。
1999年シーズンの9月5日、中継ぎで879日ぶりの白星を挙げる。
引退後
2001年シーズンには、ヤクルトの二軍投手コーチに就任[3]。
2005年シーズンからはスカウトへ転身。中四国地区を担当。
2012年の復刻ユニフォーム企画「GREAT CENTRAL」〜レジェンドユニフォームシリーズ2012〜に伴う試合前イベント『いま甦る! リーグ史を彩った、あの名勝負』に出場(9月2日、神宮)、久々にユニフォーム姿をファンの前に披露した。当該イベントでは、中日OBの宇野勝と対戦し、安打を喫している。
2017年には『世界!ニッポン行きたい人応援団』の企画で35年ぶりに生まれ故郷・イグアスに帰り、当時の友人らと再会をした[9]。
2021年には前年(2020年)に亡くなった野村克也元監督をしのぶ会にも出席した[10]。現在は球団編成グループ課長・プロスカウト担当を務める[11]。
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プレースタイル・人物
持ち球はストレート、フォーク、スライダー、カーブ。長身を活かした、ワインドアップで右足のかかとを浮かすダイナミックな投球フォームが特徴だった[5]。
パラグアイ生まれであり、スペイン語が堪能[12]。キャッチャーミットが青色でなければ投げられないほどの青色好き[13]。
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
記録
- 初登板:1991年4月10日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(明治神宮野球場)、8回表に3番手として救援登板、1回無失点
- 初奪三振:1991年4月16日、対中日ドラゴンズ1回戦(明治神宮野球場)、7回表に川又米利から
- 初勝利:1991年5月3日、対中日ドラゴンズ6回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に2番手として救援登板・完了、2回無失点
- 初セーブ:1991年5月7日、対阪神タイガース3回戦(明治神宮野球場)、9回表に2番手として救援登板・完了、1回無失点
- 初先発:1991年9月28日、対広島東洋カープ21回戦(明治神宮野球場)、7回5失点で敗戦投手
- 初先発勝利・初完投勝利:1991年10月7日、対広島東洋カープ26回戦(広島市民球場)、9回2失点
- 初完封:1992年5月13日、対読売ジャイアンツ7回戦(平和台球場)
- オールスターゲーム出場:3回(1992年 - 1994年)
背番号
- 15(1991年 - 2000年)
- 79(2001年 - 2004年)
脚注
関連項目
外部リンク
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