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川合新田 (長野市)
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川合新田(かわいしんでん)は、長野県長野市の市街地南東郊外の地区。
- 【狭義】大字川合新田の範囲。
- 【広義】1. に、大字稲葉川合新田を加えた範囲。本項で解説
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概要
地区南端に犀川が流れ、西部を国道18号が南北に走り、北部を長野県道372号三才大豆島中御所線が東西に走っている。南部は東西に広がっているが、この部分は犀川河川敷の範囲である。周囲は以下の大字・町丁と接する。
現在犀川を挟んで対岸に位置する真島町川合(旧 川合村)の新田として、慶長年間に開墾された[2]。その当時は川合の本村と川合新田とは地続きであったが、寛永年間に犀川の流路が変わり、現在のように本村と川合新田とを分断するようになった[3]ため、分村している。こうした経緯のため、川合新田村は長らく犀川南岸と同じ更級郡に属し、1873年(明治6年)になって犀川北岸の他村と同じ水内郡に編入されている。
現在の川合新田は、西部の国道18号沿いにスポーツ用品量販店等の商業施設、東部の長野飛行場跡地に中学校等の公共施設があるほかは、ほぼ住宅地で占められている。
地区内の人口および世帯数は、1,836世帯 3,962人(令和5年3月1日現在)[4]。なお、この値は大字稲葉(川合新田)を含む値である。
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沿革
- 旧川合新田村の歴史
- 慶長年間 - 高井郡綿内村(現 長野市若穂綿内)の北村門之丞が、川合村の分地で新田開発を始める
- 寛延年間(1748-1751) - 犀川の流路が変わり、川合村本村と分断され、分村。更級郡川合新田村となる
- 1873年(明治6年) - 川合新田村の所属が水内郡となる
- 1873年(明治6年)12月 - 大豆島村・牛島村・川合新田村の3ヶ村組合立の廣業学校(長野市立大豆島小学校の前身)が、大豆島村地蔵庵に開校
- 1879年(明治12年)1月14日 - 郡区町村編制法施行。川合新田村は上水内郡に属する
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行。上水内郡川合新田村、同郡稲葉村・若里村・中御所村・栗田村・鶴賀町(七瀬・居町)と合併し、芹田村となる
- 1923年(大正12年)7月1日 - 上水内郡芹田村、同郡吉田町・三輪村・古牧村とともに長野市に編入。旧川合新田村域は、大字川合新田となる
- 長野市川合新田の歴史
- 1939年(昭和14年)3月28日 - 愛国長野飛行場が開場
- 1945年(昭和20年)8月13日 - 長野空襲。長野飛行場を中心に川合新田地区の民家も爆撃を受ける
- 1957年(昭和32年)4月1日 - 川合新田汚水処理場(現 長野市衛生センター)が稼働開始
- 1969年(昭和44年)11月2日 - 国道18号長野大橋開通。川合新田と青木島町綱島とが結ばれる
- 1986年(昭和61年)7月1日 - 長野市営芹田市民プールが開場
- 1990年(平成2年)6月 - 長野飛行場閉鎖
- 1991年(平成3年)4月1日 - 長野飛行場跡地の南部に、長野市立犀陵中学校が開校。跡地北部は長野市営川合新田団地となる
- 1999年(平成11年)10月12日 - 住居表示実施。大字若里・大字中御所・大字川合新田・大字稲葉の各一部と大字荒木の全域が若里一・二・三・四・五丁目となる
- 2001年(平成13年)11月5日 - 住居表示実施。大字大豆島・大字稲葉・大字川合新田の各一部が、松岡一・二丁目となる
- 2003年(平成15年)10月27日 - 住居表示実施。大字若里・大字川合新田の各一部が若里七丁目・アークスとなる
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交通
地区北東部では、長野県道372号三才大豆島中御所線を走るアルピコ交通(川中島バス)の以下の路線系統が利用できる。
地区南西部では、国道18号を走るアルピコ交通(川中島バス)・長野市循環型乗合タクシーの以下の路線系統が利用できる。
施設
大字川合新田

大字稲葉(川合新田)
- メディセオ 長野営業部
- 長野市営川合新田団地
脚注
外部リンク
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