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張栩

日本の囲碁棋士 ウィキペディアから

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張栩(ちょう う、チャンシュイ、 1980年1月20日 - )は、台湾出身で日本棋院所属の囲碁棋士九段林海峰名誉天元門下。妻は女流タイトルグランドスラムを達成した小林泉美で、小林光一名誉三冠義父にあたる。

概要 張栩 九段, 名前 ...
概要 張栩, プロフィール ...

史上初の五冠王、史上2人目のグランドスラム達成、通算七大タイトル獲得数歴代5位、三大タイトル獲得数歴代5位タイ、日本の囲碁棋士の獲得タイトル数ランキングで歴代7位、棋道賞最優秀棋士賞7回(歴代2位タイ)、王座位獲得数歴代2位など多数の記録を保持。4年連続通算7回の賞金ランキング1位(2003-05・07-10年)。

羽根直樹山下敬吾高尾紳路らとともに台頭したため当初は「若手四天王」と称された。現在は「平成四天王」として知られる。

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来歴

要約
視点

生い立ち

6歳半の時、囲碁塾を経営していた父から碁を学ぶ。あまり経済的に余裕のある家庭ではないにもかかわらず父は全てを犠牲にして張の囲碁上達をサポートした。父は張に囲碁を教える前に3歳頃からトランプチェス中国将棋など様々な頭脳ゲームを教えた。最初から囲碁を教えるつもりだったがまだ流石に幼かったのでまずは簡単なゲームから「考える力」を身につけさせた。父の指導による勉強量は半端ではなく、普通の子供が1年かけて学ぶようなことを2・3か月でやっていた。囲碁を覚えて1年後には台湾のアマ初段(日本でのアマ三、四段ほど)になり周囲から天才少年と騒がれた[1]

小学校には生徒の数が少なかったので早めに入学させても構わないだろうと5歳半から入学していた。2年生か3年生の時に1年間休学しその間ずっと碁の勉強をしていた。やがて子供の大会では物足りなくなって十傑戦という台湾全土の大会に出場し7位に入賞した。8歳の頃新聞の特別企画で対局した作家の沈君山の紹介で台湾のプロ棋士・陳国興の弟子となる。そしてこの陳の紹介で林海峰(現・名誉天元)と出会う[1]

10歳になる頃には台湾の同世代ではトップとなり、プロ棋士になるための日本行きの話が持ち上がった。当時の台湾囲碁界はまだプロ棋士制度が整備・確立されておらず、囲碁で身を立てるためには日本でプロになるという流れができていた。林海峰王立誠九段・王銘琬九段に続くと台湾棋界から大きな期待を受け、自身の意志というより行く以外の選択肢が無いという状況になっていった[1]

来日・入段

10歳半で来日し、林海峰内弟子となる。この時「日本で絶対にプロにならなければならない」という使命感を背負っていた。しかし日本の院生のレベルの高さ(来日前には台湾のトップ棋士相手に少しハンデを貰えれば勝負になっていた)にも衝撃を受けた。当時の院生にはのちにライバルとなる山下敬吾溝上知親秋山次郎蘇耀国らがいた(4人とも現九段)[1]

AクラスとBクラスを行き来きする繰り返しで思うように成績も伸びず、また林海峰の指導方針は「自分で考える」というものだったので、今まで父親や囲碁塾の先生から勉強を指示されて勉強してきた張は何をすべきか分からなくなり大いに戸惑った。さらに日本語が分からない中での緊張感のある生活でどんどん追い込まれていった。当時ともに林の内弟子として暮らしていた林子淵(現・八段)とお互い慰めあっていたがやはり競争相手でもあるため悩みを話すことは出来なかった[1]

また蘇耀国との出会いも衝撃的だった。中国出身で張と同学年だったがその溢れんばかりの才能に驚かされた。普段はイタズラとケンカばかりしてるヤンチャ坊主なのにいざ碁盤に向かうと非常に才能を感じさせる碁を打った。プロになるまで台湾には帰らないことになっていたので日本に来てから家族にも会っていなかった。両親に心配かけまいと悩みは自分の中だけに抱え込んでいた。そんな13歳の時に母親が経済的に大変なのにもかかわらず日本に来てくれた。張が悩んでいることを知ると「囲碁、やめてもいいよ」と言ってくれた。当時アメリカにいた姉と一緒に勉強する道も示してくれた。そのことを林師匠に相談すると台湾の父親に連絡を取り、その1か月後に来日して改めて話し合うことになった[1]

そして次のプロ棋士採用試験の受験を最後の受験にすることにした。結果は10勝7敗の6位。普通であれば落選決定だがこの年だけ特別に採用人数が1人多く敗者復活戦があった。東京地区の次点者(5位・6位)と中部・関西の次点者を加えた4人で試験を行うことになった。この試験で1位になりなんとか入段することが出来た[1]

学校の成績は良かったが、東京中華学校中学部卒業後は、囲碁専念のため進学しなかった。中学卒業後に一人暮らしを始めて一人の時間が多くなったが、当時はインターネット対局がなかったため実戦ができず、棋譜並べもあまり好きではなかったため、詰碁の創作を始めた。また自分が棋士として存在した証を残したいという思いもあった[1]

名人本因坊

2000年、1歳年上のライバルの山下敬吾が七大タイトル碁聖を21歳で獲得する。それまでタイトル保持者はベテランの棋士や10歳近く年上の先輩と相場が決まっていたのでそこに風穴を空けた山下は張たちにとって衝撃だった。当時は高尾紳路(現九段)・蘇耀国・溝上知親と研究会を行っていたが打倒山下に燃えていた[1]。第25期棋聖戦リーグ・第56期本因坊戦リーグ入り。

2001年、第56期本因坊挑戦者決定リーグ戦で5勝2敗で1位となり挑戦権を獲得。5月から7月の王銘琬本因坊への挑戦手合では第7局までもつれるも3勝4敗で敗退。

2002年12月、第58期本因坊挑戦者決定リーグ戦で6勝1敗となり王銘琬王座とのプレーオフになる。

2003年4月7日の本因坊リーグプレーオフでは王銘琬王座に5目半勝ちし2年ぶり2度目の本因坊位挑戦となる。7月11日、加藤剱正本因坊との挑戦手合では1勝2敗のあと3連勝し初の七大タイトルとなる本因坊を獲得した。さらに王座を獲得。

2004年名人位を獲得し、史上5人目の「名人本因坊」となる。「名人本因坊」の最年少記録を更新(当時)。10月、第52期王座防衛戦ではライバル・山下敬吾九段との初の挑戦手合が行われた。3-1で防衛に成功。その後高尾紳路にいったん名人位を奪われるものの、2007年に奪回。

五冠・グランドスラム

2008年8月、第33期碁聖防衛戦で山下敬吾棋聖に1敗のあと3連勝し碁聖位3連覇。10月には第47期十段戦で二十五世本因坊治勲黄翊祖七段を破り挑戦者となる。11月6日には第33期名人防衛戦で史上最年少の挑戦者井山裕太八段(19)を4-3で降して名人防衛を果たす。15日、第15期阿含・桐山杯決勝で高梨聖健八段に勝利し優勝・3連覇。12月4日、第34期天元戦で3連覇中の河野臨天元に3-0で勝利し初の天元位。8日、第56期王座戦で山下敬吾王座に3-1で勝利し3期ぶり通算4期の王座位。そして史上4人目となる七大タイトル四冠になる。

明けて2009年4月16日、第47期十段戦で高尾紳路十段を3-1で破りタイトル奪取。史上初の五冠(名人・十段・天元・王座・碁聖)を獲得した。 この五冠のあと足の帯状疱疹に悩まされていた。激痛が続き数か月はまともに歩けない状態が続いた。この頃自己最多の17連勝を記録した。 10月、第34期名人位はリーグを8戦全勝で通過してきた井山裕太八段(20)が再び挑戦してくる。この時、張は春先の帯状疱疹の影響で体調が完全に戻っていなかったため、早期決着しか無いと思っていた。しかし第2局目で意外な手を打たれ対応を誤り敗北。この敗戦が響きそのまま一気に押し切られ1-4で最年少名人誕生を許すとともに五冠も終了した。井山は去年よりさらに強くなっていた[1]

2010年2月には山下敬吾の持つ棋聖戦に初挑戦し、4-1で奪取。初の棋聖位を獲得すると共に、趙治勲に続く史上2人目のグランドスラム(現行七大タイトルを全て経験)を達成した。8月、碁聖位4連覇中で名誉称号の資格がかかった第35期碁聖戦では初めて挑戦手合に勝ち上がってきた関西棋院坂井秀至七段に2-3で敗れてしまう。

台湾へ移住

2012年11月、4連覇中で再び名誉称号の資格がかかった第60期王座戦ではすでに四冠となっていた井山裕太本因坊(十段・天元・碁聖)の前に0-3と完敗。自身以来2人目となる五冠王誕生を許す。さらに翌2013年は棋聖も井山に取られ無冠になるとともに、井山は張の記録を更新する六冠となる。

タイトルが取れなかった4年間は長く感じ、もう永遠にタイトルを取れないのではないかという不安も出ていたと同時に「まぁでも勝負の世界はこんなものかな」と自分ではある程度納得してたが周りの期待を負担に感じることもあった。碁に対して悩んでおり、ひと言では言い尽くせないほど自分の状態もよくなく、碁への情熱も少し失いかけていた。現状を打開するために思い切ったことをしなければと思い、子育てのことや自分の両親のことなども含めて考え、2015年5月に家族で台湾に生活拠点を移す決断をした。妻の小林泉美六段や子どもも一緒であり、小林泉美は日本棋院に休場を申し出た[2]。張自身は対局のあるときは日本で過ごしたので、日本にいる時間のほうが長かったのが、台湾にいる間は違う生活スタイルになった。台湾の棋士とも多数交流し、早碁も沢山打ちその中で自信をつけていった。その結果、やはり碁が好きだということを改めて思った時間になった。他にも、台湾でプロを目指す子どもたちに碁を教えたり、教材を作ったり、自分がやりたかったことができ充実した時間を過ごせた[3]

復帰

2016年に4度目となるNHK杯テレビ囲碁トーナメントで優勝し、約4年ぶりとなるタイトルを獲得。7月、日本に再び生活拠点を戻す。

2017年1月19日、第43期碁聖戦の予選で史上25人目の公式戦通算900勝を達成(388敗2持碁1無勝負)。36歳11か月での達成は山下敬吾九段を上回り最年少記録。入段から22年9か月での達成は史上2位[4]。達成時勝率.699となり史上2位[5][6]。棋聖戦Aリーグ1位となりSリーグ昇格。

2018年8月、第43期名人戦リーグで8戦全勝で挑戦権獲得[7]。七大タイトル挑戦手合進出は2013年第61期王座戦以来約4年半ぶり。名人戦挑戦手合は自身が失冠した2009年以来9年ぶりで、相手は同じ井山裕太である。11月2日、第43期名人戦で井山裕太名人に1-3と王手をかけられたがその後3連勝し4-3でタイトルを奪取[8]

翌2019年、6年ぶりのタイトル防衛戦となった第44期名人戦では19歳の芝野虎丸が挑戦者になった。初戦は制したものの、その後4連敗し失冠、1-4と、奇しくも10年前の第34期名人戦と同じスコアで二度目の最年少名人誕生、及び最年少七大タイトル獲得を許すこととなった。

2022-23年、第47期棋聖戦Bリーグで5勝2敗で2位で昇格[9]。名人戦リーグ復帰。

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記録・エピソードなど

七大タイトル獲得数24期(歴代5位)、タイトル獲得数・優勝数41期(歴代7位)と囲碁史に残る獲得数を誇る張栩であるが、5連覇あるいは10期で得られる名誉称号を1つも獲得していない。王座と碁聖で4連覇まで行ったがあと1回及ばなかった。七大タイトル、タイトル獲得優勝数で名誉称号を得てない棋士のなかではともに最多優勝獲得者である(逆に張より獲得数が少ないにもかかわらず名誉称号保持者も数人いる)。

人物

台湾台北市出身。血液型O型。3つ年上の姉が1人。

2003年11月9日に棋士小林泉美と婚約、2004年1月12日沖縄にて挙式[10]。結婚時には張が本因坊を、小林が女流本因坊を保持していたことから「本因坊カップル」と称された。

2006年3月24日に長女心澄、2009年11月10日に次女心治が誕生。長女の心澄(こすみ、囲碁用語から命名)は2020年4月1日付で日本棋院所属のプロ囲碁棋士となった[11]。心治(こはる、治は趙治勲より)も、2022年4月1日より日本棋院のプロ棋士となる[12]

囲碁の普及にも熱意を燃やし、自ら「よんろのご(2011年発売)」、「張栩の黒猫のヨンロ(2012年リリースのアプリ・日本語版、英語版、中国語版、韓国語版がある)」、「囲碁パズル4路盤(2017年発売)」を考案した。

棋風

  • 詰碁作りを趣味としており、扇子の揮毫にもお気に入りの自作の詰碁を用いている。読みの速さ、深さ、正確さが知られており、特に局所的な死活の判断に滅法強い。実利派であるが、柔軟な発想と決断力があり、繊細な戦術をとる。またコウの名手としても知られる。

家系

木谷實九段
 
 
 
 
禮子
女流名人
 
小林光一
名誉三冠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小林泉美
元女流二冠
 
張栩 元五冠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張心澄張心治
 

履歴

  • 1990年(10歳):院生
  • 1994年(14歳):4月入段
  • 1995年(15歳):三段
  • 1996年(16歳):四段
  • 1997年(17歳):五段
  • 1999年(19歳):六段
  • 2000年(20歳):新人賞・勝率一位賞受賞。
  • 2001年(21歳):七段。NHK杯優勝。本因坊挑戦。
  • 2002年(22歳):新人王戦優勝。優秀棋士賞・最多勝利賞・勝率第一位賞・最多対局賞受賞。
  • 2003年(23歳):九段。本因坊・王座獲得。最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞受賞。
  • 2004年(24歳):名人・本因坊・王座獲得。最優秀棋士賞受賞。
  • 2005年(25歳):名人・王座獲得。LG杯世界棋王戦優勝。テレビ囲碁アジア選手権戦優勝。最優秀棋士賞・最多対局賞・国際賞受賞。
  • 2006年(26歳):碁聖獲得。優秀棋士賞・最多勝利賞・連勝賞受賞。
  • 2007年(27歳):名人・碁聖。最優秀棋士賞・最多勝利賞・連勝賞・最多対局賞受賞
  • 2008年(28歳):名人・碁聖・王座・天元。最優秀棋士賞・最多勝利賞受賞。
  • 2009年(29歳):十段獲得により名人・十段・天元・碁聖・王座の五冠達成。最優秀棋士賞・連勝賞受賞。
  • 2010年(30歳):棋聖位獲得によりグランドスラム達成。最優秀棋士賞受賞。
  • 2011年(31歳):棋聖・王座
  • 2012年(32歳):棋聖位防衛。十段・天元挑戦。優秀棋士賞受賞。
  • 2013年(33歳):棋聖・王座挑戦。
  • 2016年(36歳):NHK杯優勝。
  • 2017年(37歳):通算900勝達成[6]
  • 2018年(38歳):名人獲得。
  • 2020年(40歳):通算1000勝達成。勝率.689での達成となり史上2位(関西棋院含む)、日本棋院では史上1位。
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記録

  • 史上初の七大タイトル「五冠」(2009年)
  • 史上最多の年間勝利数「70勝」(平成14年)
  • 棋道賞最優秀棋士賞 歴代2位タイ「7回」
  • 史上2人目のグランドスラム達成
  • 史上最年少600勝達成 「27歳7か月」
  • 史上最速600勝達成「入段から13年4か月」
  • 史上最年少700勝達成「29歳10か月」
  • 史上最速700勝達成「入段から15年8か月」
  • 史上最高700勝達成時勝率「.734」
  • 史上最年少800勝達成「33歳3か月」
  • 史上最速800勝達成「入段から19年0か月」
  • 史上最高800勝達成時勝率「.714」
  • 史上最年少900勝達成「36歳11か月」

タイトル優勝結果

タイトル数41(歴代7位)

棋戦
三大タイトル
他七大タイトル
国際タイトル
他大会
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主な成績

(2023年3月28日現在)

獲得タイトル

タイトル番勝負 獲得年度 登場 獲得期数 連覇
棋聖七番勝負
1-3月
10(34期)-12 4 3期 3
名人七番勝負
9-11月
04(29期)-05,07-08,18 8 5期 2
本因坊七番勝負
5-7月
03(58期)-04 4 2期 2
王座五番勝負
10-12月
03(51期)-05,08-11 10 7期
(歴代2位)
(現役1位)
4
(歴代2位)
天元五番勝負
10-12月
08(34期) 2 1期
碁聖五番勝負
6-8月
06(31期)-09 5 4期 4
(歴代3位)
十段五番勝負
3-4月
09(47期)-10 5 2期 2
登場回数合計38回、獲得合計24期=歴代5位、
3大タイトル獲得数10期=歴代6位

同時保持

さらに見る 期間, タイトル ...

世界棋戦

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年表

  • タイトル戦の欄の氏名は対戦相手。うち、色付きのマス目は獲得(奪取または防衛)。青色挑戦者または失冠。黄色はリーグ入り。
  • 棋道賞は、 : 最優秀棋士賞、 優 : 優秀棋士賞、 特別 : 特別賞、
     : 勝率一位賞、 勝 : 最多勝利賞、 対 : 最多対局賞、 連 : 連勝賞、
    国際 : 国際賞、 新人 : 新人賞、 哉 : 秀哉賞
  • 賞金&対局料は、年度区切りではなく1月 - 12月の集計。単位は万円。色付きの年は全棋士中1位。
さらに見る 棋聖戦, 十段戦 ...
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エピソード

  • 名前の日本語読みについて中国文学者で囲碁ファンの高島俊男から、「『栩』は日本語の音読みでは『う』ではなく『く』が正しい」という指摘があったが、本人によると、「『チョーク』とからかわれるぞ」と師匠の林海峰が言って『う』にさせたということである[14]
  • 五冠王になった際は、2000年代前半に大ヒットした囲碁作品『ヒカルの碁』の登場人物・塔矢行洋名人(五冠)と同じタイトルで五冠を獲得したことも話題になった。
  • 後に妻となった小林泉美には、デートのたびに詰碁の山を渡し、「次までに解いてくるように」と「特訓」を課していたという。小林は「この人について行けるのは自分しかいない」と思ったと述懐している[15]
  • タバコが大変に苦手である。若手時代には勝率8割近い成績を安定して残していたが、本人によれば「もし対局場が禁煙だったならば、年間で2、3敗程度しかしなかったと思う」と語っている[15]。なお、現在日本棋院は全室禁煙である。
  • タイトル戦番勝負に出場した際は粘り強く、ストレートで敗退したのは34度目のタイトル戦第60期王座戦が初めてであった。反面、名誉号が掛かる期には、全て失冠している。5連覇による名誉碁聖の掛かった第35期碁聖戦では、坂井秀至に敗れて獲得ならず。5連覇による名誉王座の掛かった、第60期王座戦では、井山裕太に敗れて獲得に失敗している。
  • 日本棋士が総じて苦戦している国際戦でも結果を出している数少ない棋士であり、第9回LG杯世界棋王戦、第17回テレビ囲碁アジア選手権戦で優勝している。
  • 若い頃から「直感」を磨くため実践経験をできるだけ多く積むことを心がけてきた。そのため早碁も趣味と言っていいくらい大好きである。いい相手であれば1日に十局以上打つこともしてきた[1]
  • 打った碁はすべて内容を覚えているので、布団に入ってから寝る前に頭のなかで手順を並べ直すこともあった[1]
  • 年間の目標はタイトルを目標にすると負けると終わってしまうため年間勝ち星を目標としている[1]
  • 早碁棋戦が増えてきているため普段から意識して早打ちを心がけている。序盤とは違い終盤のヨセでは時間を使えば正解が出てくるためそのために時間を残しているのもある[1]
  • 脳の体力を鍛えるため、疲れきった脳に最後に一仕事させる訓練として若い頃は公式対局の後家に帰ってきて疲労困憊の状態でさらにインターネットなどで早碁を打っていた。また、疲れて寝る前に布団の中でその日打った碁の再現や、頭のなかで詰碁、脳の中で超高速で石を並べたりもする[1]
  • かつてあった大手合では対局料が少なくタイトルに直結するわけではないので多くの棋士が今ひとつモチベーションが上がってない中、大手合ではコミがなかったので黒番ならいかに確実に勝ち切るか、白番ならいかに不利な条件を克服するかをテーマに対局に臨んだ。その結果引き分け1つ挟んで40連勝という記録を打ち立てた。さらに2002年は年間70勝という史上最多勝利記録も樹立した[1]
  • 第69期本因坊リーグ最終戦で、結城聡九段との対局の際、対局会場を間違え、不戦敗となった[16]。このことについて、張栩は週刊碁に謝罪文を掲載している。
  • NHK杯において第49期で初出場優勝して以降、第66期まで「張と当たった棋士はその年優勝できない」というジンクスがあった(決勝に進出した4期は全て優勝しており、その他の年は準決勝までに張を破った棋士は全員、優勝を逃している)。この間に欠場した年は一度もなく、第一線で活躍する棋士としては非常に珍しいケースである。第67期で、準決勝で張を破った井山裕太が優勝したことにより初めてこのジンクスが覆った。
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得意手法

小目から黒1の位置にヒラく手法を多用する。

黒1、3の並び小目から辺の星に打つ布石を低段時代に多用し、「張栩スペシャル」と名付けられた。白がaなどとカカればハサんで厳しく攻める。ただしこの構えは右辺の低い位置に石が偏っていることから、次第に打たれなくなった。

2014年のNHK杯などで、上図のような「7の5」の位置に四連打する布石を披露して話題を呼んだ。この形を張栩は「ブラックホール」と呼んでいる[17]

代表局

要約
視点

ヨセコウで逆転

白10、16(コウトリ)、白6(5の下)、黒7、13(コウトリ)、黒11(5)、白12(5の右)

第34期棋聖戦挑戦手合第三局、対山下敬吾戦。張の白番。左下で白が不利な二手ヨセコウを争っている局面で、このコウを何事もなく解消されると黒の地合有利が確定してしまう形勢。bの取りは白からの絶対コウだが、張はあくまで保留し他所の際どいコウダテから効かしてゆく。黒も、白が本コウをまだ仕掛けていない今の状態では解消しづらいため、コウダテに受けて頑張る。


黒19、25、31、39(コウトリ)、白28、36、48(コウトリ)、黒33(32の2路上)、黒35、47(33の右)、白38(34)、白40(32の上)、白50(34の右)

黒はコウダテが少ないため、左下に対して価値の小さい左上を連打するよりなくなる。白30と本コウに持ち込んだタイミングで、ようやく32の絶対コウを使うのがコウに勝つための手順の工夫。ヨセコウの段階で32を使ってしまうと、本コウにした後白からは小さなコウダテしかなくなるため黒に解消され、18や30のダメ詰めが0目の手になってしまう。左上隅には白から生きる手が残っており、(1線にマガリからオサエに対しサガリ。)白の8目半勝ち。

4年ぶりの一般棋戦優勝

第63期NHK杯決勝、対寺山怜戦。張の黒番。下辺が焦点となっているが、白からaとbの二つの効きを保留されており、黒からの荒らしが難しい局面。序盤で寺山が上辺のフリカワリで得をして優位に立っていたが、数手前に打った△のサガリがやや緩手であった。張が右辺のコウ取りを睨みつつ黒1とツケたのが様子見の好手。

白の形も薄いため、2から6は自然な進行。さらに黒7のハネ出しから下辺の白1子のシチョウを睨み、左辺のポン抜きを先手で効かす。結果下辺を凝り形にさせ、さらに左辺白の攻めも残すことに成功した[18]

コウを解消し黒がやや優勢となる。ここで黒1のトビが、上辺の黒地を先手で固める妙手であった(手抜きはaとbのオサエを両方打たれ、隅の黒が活きる)。黒の中押し勝ち。張は8年ぶり4度目のNHK杯優勝、また2012年の阿含桐山杯優勝以降4年ぶりの一般棋戦優勝を果たした。この時、張は前述の不調克服のための台湾帰郷のさなかであり、解説の小林覚は「張はここ最近はっきり調子を上げていると言える」「打ち回しが美しい。芸術だ」と勝利を称えた。

著書

  • 打碁鑑賞シリーズ7『張栩』(2004年6月、日本棋院)
  • 張栩の詰碁(2006年7月、毎日コミュニケーションズ)
  • 張栩の特選詰碁(2008年11月、日本棋院)
  • トッププロに学ぶ 珠玉の7大講座(共著、2009年8月、日本棋院)
  • 勝利は10%から積み上げる(2010年2月、朝日新聞出版)
    • 文庫版(2022年12月、朝日文庫)
  • 張栩の実戦に学ぶ コウの考え方 全27局徹底解説(2010年7月、毎日コミュニケーションズ)
  • よんろのごのほん 張栩からのもんだい100(2012年1月、幻冬舎)
  • 新版 基本死活事典(2014年8月、日本棋院)
  • 囲碁パズル 4路盤 問題集105(2018年5月、幻冬舎)
  • 張栩の捨て石詰碁 上・下巻(2021年3月、日本棋院)

脚注

外部リンク

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