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御三卿
徳川将軍家の一門 ウィキペディアから
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御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に創立した徳川将軍家の一門(親藩)。三卿(さんきょう)とも。以下の3家が該当する。
- 田安徳川家(田安家) - 家祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の三男)
- 一橋徳川家(一橋家) - 家祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)
- 清水徳川家(清水家) - 家祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)

各家は江戸幕府より10万石の賄料を与えられ、将軍の親族として御三家に準じる高い格式を有したが、一般の大名と異なり独立した藩を形成することはなく、実質的には将軍の庶子やその子女を、適当な養家となる大名家が現れるまで待機させておく「将軍家の部屋住み」として扱われた。御三家をはじめ他の大名家や将軍家に後継者がない場合に養子を提供する役割を果たしたほか、江戸時代後期や幕末の幕政にもたびたび関与した。明治維新時に徳川宗家から独立し、近代には華族となった。
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沿革
江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が、1731年(享保16年)に三男の宗武(田安家初代)へ、1740年(元文5年)に四男の宗尹(一橋家初代)へそれぞれ江戸城内に屋敷を与えたことに始まる。この時は御両典(甲府家・館林家)の例に倣い[1]、2人を指して「御両卿」(ごりょうきょう)と呼んだ[2]。その後、吉宗の長男で第9代将軍となった家重が、1759年(宝暦9年)に次男の重好(清水家初代)へ屋敷を与えたことで「御三卿」の体裁が整った[2][注 1]。「御三卿」の呼び名は、当主が公卿の位である従三位に昇ることに由来するとされる[3][注 2]。
幕藩体制下で御三卿は独立した家をなさずに将軍の親族として扱われ、御三家や越前家などへ養子を提供した(後述)。また、将軍家に後嗣がないときも御三家および御三卿から適当な者が選定された。実際に一橋家から第11代将軍徳川家斉と第15代将軍徳川慶喜が出ており、明治維新後は田安家の徳川家達が徳川宗家を相続している。
御三卿は、1868年(明治元年)5月に田安・一橋両家が独立した藩として新政府より認められた(維新立藩)[4][注 3]。翌1869年(明治2年)の版籍奉還で田安・一橋両藩は廃藩となるものの、これ以後の御三卿は徳川宗家とは別個の家となり、1884年(明治17年)の華族令により、3家はそれぞれ伯爵を叙爵した[注 4]。
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位置付け
要約
視点
御三卿の創設理由については、徳川吉宗が将軍家と御三家の血縁関係が当時すでに薄くなっていたことを鑑みて、自身の血統をもって将軍家を継続させていくために定めたとする解釈[6]、あるいは将軍職継承に際して後継争いを未然に防ぐため将軍家の身内として御三卿を新設し、そこから後継者を選ぶようにしたとする解釈、あるいは御三家の勢力を抑えるために興したとする解釈が従来行われてきた[2]。
しかし辻達也は、吉宗の当初の思惑としては、将軍の庶子を大名として独立させていっては際限がなく、領地も足りなくなるため、宗武と宗尹については部屋住みの扱いにして将軍家に留めておき、しかるべき大名家へ養子として送り込むつもりだったのではないかと推測し、吉宗が自身の血統で将軍職の独占を図るため御三卿を創設したとする解釈は結果論的なものであると論評している[5][7]。吉宗在世当時の幕領には、御三家(あるいは御両典)並みの広大な藩領を新たに将軍の庶子へ分与できる余裕がすでになく、また将軍の庶子を10万石という中大名規模で独立させるとむしろ格式を下げるおそれがあったため、このように特異な処遇になったといえる[8]。ほか喜田貞吉は、紀州家の庶子という立場から昇進して将軍に就いた吉宗は尾張家や水戸家への遠慮から、自分の庶子をこれら2家より上席の大名に取り立てることを避け[注 5]、宗武と宗尹を部屋住みの扱いにしたとしている[10][注 6]。
御三卿は独自の城を持たずに江戸城内の屋敷に居住し、賄料(経費)は幕領から宛てがわれ、家臣の多くは幕臣が務めるなど、一般的な大名に比べると独立性が非常に弱く、あくまで将軍の親族にとどまるものだった[4][6][11]。徳川慶喜に一橋家時代から仕えた渋沢栄一が「三卿の家は起立の初には、必ずしも其主を常置すべきものとは定まらず、唯将軍家の子弟の養はるべき家なき間、据ゑ置かるべき設なるが如し」と説くように[12]、御三卿は適当な養家となる大名家が現れるまでの間、将軍の庶子を待機させておく仕組み、いわば「将軍家の部屋住み」というのが実態であったとみなせ[4][11]、御三卿を大名のうちに数えない解釈もある[13][注 7]。
そのため、御三卿には子による家督相続で家を永続させるという前提がなく[4][6]、当主(屋敷の主)本人やその嫡子が養子となって御三家や越前家を相続した例がある[15]。また、当主の死去および養家への転出によって跡継ぎが存在しない事態が発生しても、その屋敷や領地、家臣団が解体されずに存続する「明屋敷」(あけやしき)の措置がとられ[1][2][注 8]、将軍に新たな庶子が生まれた場合、明屋敷の家を相続させた[18][注 9]。
幕末には、逆に御三家から庶子、さらには隠居した当主が明屋敷となった御三卿に入って相続するなど、当初の性格が変化する部分もあったが[1]、田安家から越前家に入った松平春嶽が著書『幕儀参考』において「三卿ハ、タトエハ将軍ノ庶子ヲシテ本丸ニ置クヘキヲ、第ヲ賜ヒテ他ニ住セシム、ユヱニ、将軍ノ厄介ト見倣シテ可ナリト云フヘシ」と記し[2][20][注 10]、水戸家から一橋家に入った徳川慶喜も安政の大獄で隠居謹慎を命じられた際に「抑三卿は幕府の部屋住なれば、当主ならざる部屋住の者に隠居を命ぜらるゝは、其意を得ざることなり」と不満を漏らしたように[22]、御三卿出身者が自らの立場を「将軍家の部屋住み」と認識していたことがうかがえる。
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格式・待遇
御三卿の格式は、尾張家と紀州家に準じるものとされた[2]。元服すると従三位に叙され、八省の卿もしくは右衛門督の官職と権中将を兼任した[1]。家督相続後は参議に任じて田安・一橋・清水を号し[2][注 11]、長寿に達すると権中納言や従二位権大納言へ昇進した[1][2][23][注 12]。また、当主と嫡子は徳川の苗字(本姓は源氏)の使用を許された(ただし庶子は「松平」を用いる)[1]。
- 御三卿の各屋敷地に近い城門
幕府儀礼における御三卿の席次は、御三家の当主とその嫡子の間に置かれたが、御三家の家格が尾張・紀州・水戸の順に固定していたのと異なり、「将軍家の部屋住み」だった御三卿に定まった序列はなく、その時々に任官した順番が席の高低に反映された[1][24]。他に、御三卿の正室は皇族や摂家から迎えられ、その尊称には御三家正室と同じく「御簾中」が用いられた。
また、御三家以下の諸大名が江戸城への登城時、正門にあたる大手門から入城して表御殿の各詰所に控えた一方で、御三卿は平川門から登城して本丸御殿中奥の内玄関(御風呂屋口)を経て、中奥の御控所(おひかえじょ)に入るという相違もあった[2][18][25]。将軍の生活空間である中奥に御三卿の詰所があったのは、将軍の最近親者としての御三卿に対する特別礼遇であった[2][25][26]。
領地
御三卿の領地は幕領より「賄料」として支給され、清水家創設前の1746年(延享3年)にそれぞれ10万石と定められた[2][注 13]。賄料を幕領から充てる形をとったのは、大名として独立させると幕領が不足するおそれがあり、立藩を断念したためでもある[2][11]。かつ、御三卿は独立した家ではないため、当主の実子が家督を継ぐ場合でも将軍から改めて賄料を与えられるという形をとり、「相続」の語は用いられなかった[27]。
御三卿領は関東と畿内周辺の数か国に分散しており[2]、これらの郡代の下に置かれた独自の代官所によって行われた。例として、田安家の摂津国長柄陣屋、甲斐国田中陣屋など、一橋家の大坂川口陣屋や備中国江原陣屋、越後国金屋陣屋などがある。領地の選定については、生産力が高い土地柄を宛がわれるなどの配慮を受けていたとみられる[注 14]。ただし、一部の例外を除いて御三卿と領地の結びつきは弱く[29][30]。また、御三卿領と家格維持のための支出は、次第に幕府財政を圧迫することとなった。
明治元年(1868年)、徳川宗家が静岡藩を立藩すると共に、田安家の徳川慶頼と一橋家の徳川茂栄もそれぞれ独立して立藩したが、田安・一橋の両藩は翌明治2年(1869年)の版籍奉還の際、他藩に先立ち廃藩し、かつ両藩主とも知藩事に任じられず、家禄を支給されることとなった(田安家は3148石、一橋家は3805石)[注 3][注 15]。明屋敷であった[注 3]清水家の家督を明治3年(1870年)に相続した徳川篤守も、家禄2500石を支給されるにとどまった。
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家臣
将軍家の身内であった御三卿の家臣団(邸臣団)は、幕府から出向した幕臣(旗本・御家人)で、幕府の役職に復帰可能な「御付人」(おつけびと)と、幕臣の次三男で御三卿に出向したきりとなる「御付切」(おつけきり)、独自に採用した「御抱入」(おかかえいれ)の3種に区分された[2][6][11][18][32]。特に1767年(明和4年)には、御付人は上級役職の「三殿八役」(さんでんはちやく、「八役」とも)のみを担当することと決められた[2][32][注 16]。三殿八役以外の役職には側衆・側用人・書院番頭などがあった[33]。
俸禄の支給についても、御付人は直参として幕府から直接受け、幕臣でありながら陪臣として扱われる御付切は御三卿を介して幕府から受け取り、同じく陪臣とされる御抱入の俸禄は御三卿の賄料から支払われるなどの違いがあった[2][11]。
家老
御付人が務める御三卿家老は、定員2名で官位は従五位下諸大夫とされ、役料は幕府と御三卿からそれぞれ1000石を支給された[18]。江戸城においては菊間に詰め、幕府の側衆や他の御三卿家老と交渉した[18]。御三卿の初代家老には、幕臣の中から次の各2名が任じられている[34]。
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政治との関わり
御三卿は将軍の親族として江戸城内に居住し、領国経営、軍役の必要や参勤交代の義務がなく、公務は幕府の儀式に参加する程度で実質上は何もすることがなかった[35]。御三家や御両典の当主は一般の大名と同様に自らの所領と領民を持ち、家臣団を統括して藩政や家政を独自に運営し、かつ尾張・紀伊両藩の藩主は参勤交代で隔年の参府と領国下向を繰り返さなくてはならなかった。水戸藩主は定府で巷間で「副将軍」と呼ばれたが、それでも領国経営の必要はあり、かつ定府ゆえの紛糾が絶えなかった。これに対し御三卿は、江戸城中においては実際の政治の担い手である老中や大老よりも上位の席次にあり、将軍の最近親者として政見を具申することが可能であった[36]。特に、第11代将軍家斉の実父である一橋家2代治済は幕政への関与を志向し、反田沼意次派として松平定信の老中就任を工作するなどしている[36]。
幕末になると御三卿の政治参画はさらに増え、田安家は南紀派の井伊直弼と組んだ慶頼が将軍後見職を務めた。一橋家時代の徳川慶喜は幕政に名実ともに深く関わることになると、家臣と共に幕政や家領の経営に当たり、また直属の兵力の必要から領国で農兵の徴募を行った[注 17]。また、慶喜の弟である昭武は慶喜の将軍就任後に清水家当主とされたが、領国経営にこそ関わらなかったものの、清水家時代のほぼ全期をヨーロッパで過ごしており、幕府の遣欧使節団の代表を務めた後に留学生活を送っている。
近代の華族制度下で伯爵となった田安家の徳川達孝(徳川家達の実弟)と一橋家の徳川宗敬(徳川篤敬の次男)は貴族院伯爵議員として政治に携わり、特に宗敬は第二次世界大戦後に最後の貴族院副議長を務め、参議院議員在職時にはサンフランシスコ講和条約調印の際、日本側全権委員に加わった。また、清水家は外交官を務めた徳川篤守(徳川慶篤の次男)が負債問題から伯爵位を返上するも、篤守の子の徳川好敏が陸軍で航空分野を確立した功績により男爵に叙されている。
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系譜
要約
視点
御三卿は、将軍の庶子やその子女を、養家となる大名家が現れるまで幕府で扶養する「将軍家の部屋住み」というべき存在であり、機会があれば他の大名家へ養子に入ることが多く、それは当主や嫡子であっても同様だった。とりわけ、一橋家は2代治済とその子で第11代将軍家斉が多子だったこともあり、一時期は一橋家の血筋が代々の将軍をはじめ、御三卿・御三家(水戸家を除く)を含めた親藩のほとんどの当主、さらには外様大名の福岡藩主黒田家まで及ぶに至ったが[4]、幕末において宗尹の血筋は田安家でしか続かず、逆に御三家から庶子や隠居した元当主が入って一橋家や清水家を相続するという、創設当初には想定し得なかった事態が生じた。宗尹直系が絶えた一橋家の当主には慶喜が水戸家から入り、慶喜が将軍を継いだ後は、元尾張藩主で隠居の身であった徳川茂徳が茂栄と改名して一橋家を継ぎ、さらに慶喜の弟の昭武が明屋敷だった清水家を継いでいる。特に慶喜と昭武の祖父徳川治紀は女系ながら2代将軍徳川秀忠の血を引いている[注 18]。茂栄もさかのぼると水戸家の血を引いており、御三卿のうち2家が(将軍家や尾張家と共に)吉宗直系でない水戸家の血筋で占められることになったのである。なお、御三家からは当主本人だけでなく藩士も家臣として転属してきている。
徳川吉宗の血筋からの将軍家(宗家)および御三卿当主の系譜(戦前まで)
徳川吉宗 紀伊家5代 8代将軍 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家重 9代将軍 | 宗武 田安家初代 | 宗尹 一橋家初代 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家治 10代将軍 | 重好 清水家初代 | 治察 田安家2代 | 治済 一橋家2代 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家基 | 家斉 11代将軍 | 斉匡 田安家3代 | 斉敦 一橋家3代 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家慶 12代将軍 | 敦之助 清水家2代 | 斉順 清水家3代 紀伊家11代 | 斉明 清水家4代 | 斉荘 田安家4代 尾張家12代 | 斉彊 清水家5代 紀伊家12代 | 斉位 一橋家5代 | 慶寿 一橋家7代 | 慶頼 田安家5/8代 | 斉礼 一橋家4代 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家定 13代将軍 | 慶昌 一橋家6代 | 家茂 紀伊家13代 14代将軍 | 昌丸 一橋家8代 | 寿千代 田安家6代 | 家達 田安家7代 宗家16代 | 達孝 田安家9代 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
家正 宗家17代 | 達成 田安家10代 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
水戸家の血筋からの将軍家(宗家)および一橋家・清水家当主の系譜(戦前まで)
徳川治保 水戸家6代 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
治紀 水戸家7代 | 松平義和 高須家9代 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉昭 水戸家9代 | 松平義建 高須家10代 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慶篤 水戸家10代 | 慶喜 一橋家9代 15代将軍 別家初代 | 昭武 清水家6代 水戸家11代 | 茂栄 高須家11代 尾張家15代 一橋家10代 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
篤敬 水戸家12代 | 篤守 清水家7代 | 厚 宗家分家初代 | 慶久 別家2代 | 誠 別家分家初代 | 武定 松戸家初代 | 達道 一橋家11代 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
圀順 水戸家13代 | 宗敬 一橋家12代 | 好敏 清水家8代 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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展覧会
- 企画展「徳川御三卿」、期間:2010年10月5日 - 11月14日、会場:江戸東京博物館、主催:東京都、東京都江戸東京博物館、財団法人德川記念財団、図録あり[37]
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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