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朝嵐大三郎

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朝嵐 大三郎(あさあらし だいざぶろう、1943年7月8日 - 2023年4月2日)は、大阪府大阪市東淀川区出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は笹木 淳二(ささき じゅんじ)。現役時代の体格は183cm、117kg。最高位は東前頭12枚目(1969年5月場所)。得意手は右四つ、突っ張り、吊り、寄り[1]、血液型はB型。

略歴

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エピソード

  • 三段目上位の頃は白田山曰く「無敵」であったようであり、前の山は「それで幕下へ上がったときは、もうこの人、大関まで行っちゃうなと思ったね。十両なんか飛んで、すぐ幕内へ上がると思ったものね」とかつて期待していたことを1972年7月場所3日目に行われた高砂部屋同僚座談会で明かしていた[4]
  • 「朝嵐」は、かつて大関2代朝潮が名乗っていた高砂部屋ゆかりの四股名で、それだけ期待もされていた。新弟子時代からしばらく名乗っていた「朝響」も出世名の1つであった。長身を生かしての寄り、吊りが武器であった[1]。だが、和晃戦でも見られたような潔癖さが災いしたのか、力士としては大成できなかった。[5]1967年11月場所千秋楽を7勝7敗で迎え、負けて7勝8敗として翌場所幕下に陥落したことは、後に本人が座談会で振り返っており、自ら「勝負に向いていない」「はっきり言って、気が弱い」と自己分析していた[4]
  • 和晃戦の反則負けは取組後に審判室で抗議するも判定は覆らず、師匠の高砂親方(元横綱・前田山)から「自分も(朝嵐と思いは)同じだが、これで忘れろ。一杯飲んで来い」と5万円を渡され、一夜で使い果たしたという[6]
  • 現役引退後暫くは相撲教習所配属の親方として、入門して間もない力士達の実技指導に当たった。独特の、奇声を発しながら竹刀を振り回す指導スタイルは、異例とも言える存在感を放っていた。
  • 協会在職中に、東京都文京区湯島や同千代田区神田などで、相撲料理店「振分」を経営した。
  • 自著には、小錦6代高砂(元小結・富士錦)が不仲であるという主張が記述されている。1992年3月場所後に小錦が横綱昇進を見送られた際に、小錦が「人種差別のせい」と話したとされる(本人は、付け人が電話でなりすましたと主張)記事を巡って先代高砂が叱責したことで不仲が頂点に達したといい、それ以前からも祝儀の取り分を巡って意見が対立することが多かったという。また7代高砂(元大関・朝潮)についても「タニマチを紹介したのに、礼の1つも無かった」「高砂を継いだ後も、昼のちゃんこを他の親方と一度も食べたことが無い」などと否定的に記述されている。他にも、自身が停年を迎えた後にも年寄株・振分の一時金が債務として残っており高見盛に現金一括払いで返済してもらったことも明かしており、上述のちゃんこ屋も買い取らせるつもりであったという(こちらは実現しなかった)。
  • 現役引退後は埼玉県草加市に住み、草加市内の全小学校に土俵を設置するなど、地域の相撲振興に尽力した[3]
  • 現役時代はテレビ番組と言えばクイズ番組を好んで見ていた[4]
  • 元々協会には残るつもりは無かったが、引退直前になって北の富士が持っていた年寄名跡・振分を自分が襲名し、北の富士は井筒を襲名することにしてくれないか、と頼み込み、協会残留を果たした[7]
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主な成績

  • 通算成績:403勝425敗7休 勝率.487
  • 幕内成績:5勝10敗 勝率.333
  • 現役在位:82場所
  • 幕内在位:1場所

場所別成績

さらに見る 一月場所 初場所(東京), 三月場所 春場所(大阪) ...

幕内対戦成績

さらに見る 力士名, 勝数 ...
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改名歴

  • 朝響 淳二(あさひびき じゅんじ)1959年9月場所 - 1964年3月場所
  • 朝嵐 大三郎(あさあらし だいざぶろう)1964年5月場所 - 1973年3月場所(引退)

年寄変遷

  • 高田川 大三郎(たかだがわ だいざぶろう)1973年3月 - 1973年5月
  • 高田川 勇次( - ゆうじ)1973年5月 - 1974年3月
  • 振分 勇次(ふりわけ - )1974年3月 - 2008年7月(停年退職)

参考文献

著書

  • 『大相撲 型破り交遊録』(発行元:グローバルエディット)

脚注

関連項目

外部リンク

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