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福の花孝一
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福の花 孝一(ふくのはな こういち、1940年7月1日 - 2021年)は、熊本県菊池郡合志町(現役当時、現在の同県合志市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は松井 孝一(まつい こういち)(入門時の姓は福島(ふくしま))。得意手は右四つ、突っ張り、寄り。身長183cm、体重135kg。岳父は元小結・和歌嶌。最高位は東関脇(1971年1月場所)。
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来歴
農家の生まれで、親類に出羽海部屋の幕内力士、八方山がいた関係で出羽海部屋に入門、1958年1月に初土俵を踏んだ。入門から6年後の1964年7月に新十両、1965年9月に新入幕を果たした。
同部屋の先輩である横綱・佐田の山譲りの突っ張りが得意で、その強さは1970年1月場所で当時大関の北の富士を張り手一発で倒し脳震盪を起こさせるほどだった[2][注 1] [3]。このため四股名を捩って、フックの花(張り手をボクシングのフックに例えた)と呼ばれた[2]。その張り手は天龍源一郎に「相撲で怖い、というよりも苦手だったのが“フックの花”こと福の花だ。フックのような張り手をアゴに食らってノックアウトされたりしたからね」と述懐させるほどのものであった[4]。出世は必ずしも早いとはいえなかったが、長く幕内上位で活躍した。1970年5月場所と翌7月場所では横綱・玉の海から連続して金星を奪う大活躍を見せ[注 2][5]、新関脇の1971年1月場所(初日から8連敗のあと休場、結局関脇を務めたのはこの場所のみ[注 3]。)では、すでに30歳を越していて、当時の幕内では珍しい高年齢の新関脇と話題になった。
一時代を築いた柏戸、大鵬とはいずれも引退当日の対戦相手となり、不戦勝を得るというエピソードを残している。なお、実際の対戦では柏戸に勝ったことはあるが、大鵬には1度も勝てなかった(初顔合わせから10連敗)。
同部屋の後輩・三重ノ海に期待を寄せ、「五郎(三重ノ海の本名)が大関になるまでは引退しない」と頑張っていた。1975年、幕内で6場所連続して負け越し、同年11月場所限りでついに引退を決意した。同場所、関脇の地位にあった三重ノ海は13勝2敗の好成績で初の幕内最高優勝を遂げ、場所後に大関昇進を果たした。
三賞はいずれも敢闘賞で、7回受賞は引退当時同賞の最多受賞記録だった(のちに貴闘力が10回で更新)。三賞受賞が全て一部門に集中した力士としては、最多の三賞受賞回数を誇る。
引退後は年寄・関ノ戸を襲名して永く協会在勤の委員として協会事務に携わり、2000年には役員待遇に昇格、2005年6月に停年を迎えた。停年後も関ノ戸の年寄名跡を引き続き所有し、貸株として運用していたが、2008年に岩木山に年寄株を譲った。
2009年3月場所より同部屋の後輩・朝日盛(本名・福本修司)が新たに「福の花」を襲名したが、これは同年出席した新年会の席で「名字が福本なら使えばいい。」と勧めたものである。
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略歴
主な戦績
- 通算成績:637勝623敗46休 勝率.506
- 幕内成績:421勝466敗28休 勝率.475
- 現役在位:106場所[注 4]
- 幕内在位:61場所[2]
- 三役在位:7場所(関脇1場所、小結6場所)
- 三賞:7回
- 敢闘賞:7回(1967年11月場所、1970年5月場所、1970年11月場所、1971年3月場所、1972年1月場所、1972年11月場所、1974年11月場所)
- 金星:5個(玉の海2個、北の富士2個、輪島1個)
- 各段優勝
- 幕下優勝:1回(1964年5月場所)
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
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改名歴
年寄歴
- 関ノ戸 孝一(せきのと こういち)1975年11月 - 2005年6月
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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