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濱尾新
日本の官僚・政治家 ウィキペディアから
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濱尾 新(はまお あらた[1]、1849年5月12日〈嘉永2年4月20日〉- 1925年〈大正14年〉9月25日)は、日本の文部官僚、政治家。旧豊岡藩士。位階勲等爵位は従一位勲一等子爵。
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文部省専門学務局長、元老院議官、第8代東京帝国大学総長、文部大臣、高等教育会議議長、東宮大夫、貴族院議員、枢密顧問官、枢密院副議長・議長、内大臣を歴任した。
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生涯
嘉永2年4月20日(グレゴリオ暦1849年5月12日)、但馬豊岡藩士・濱尾嘉平治の子として、豊岡(現在の兵庫県豊岡市)に生まれる。初名は貞次郎[2]。
1869年9月に藩費遊学制度により、21歳で芝新銭座慶應義塾(現在の慶應義塾大学)に入学する。同窓に、中上川彦次郎、村尾真一、吉村寅太郎、矢野文雄、藤野善蔵、魔野巻蔵、秋山恒太郎、名児耶六都、小林雄七郎、城泉太郎、森下岩楠、坪井仙次郎、後藤牧太、鮫島武之助、日高壮之丞、近藤良薫、田尻稲次郎、穂積寅九郎、永田健助、中村貞吉など)慶應義塾に在学中、慶應義塾の派遣教員となって一時高島学校(藍謝堂)に赴任する。他、本所の村上英俊からフランス語を学ぶ。
1872年、文部省に出仕し、大学南校の中監事となる。1873年から1874年にかけてアメリカ合衆国に留学し、オークランドの兵学校に学ぶ。帰国後の1874年に開成学校校長心得となった。1877年、東京大学が設立されると、法理文三学部綜理補として同郷の法理文三学部綜理(のちに東京大学総理)加藤弘之を補佐した。1885年11月には、学術制度取調のためヨーロッパ各国に出張した。 1887年、ケンブリッジ大学から法学博士号を授与される[3]。
1889年、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)の創立に際し、校長事務取扱(校長代理)を拝命する。同校の幹事は岡倉覚三(天心)。
1890年に文部省専門学務局長となり、農商務省主管の東京農林学校を帝国大学に合併することを推進した。同年9月には貴族院議員(勅選議員)となっている(1911年8月まで)。1893年、帝国大学第3代総長となる。在任中の1897年6月、京都帝国大学の創設に伴い、帝国大学は東京帝国大学に改称されている[4]。
1897年11月6日、蜂須賀茂韶に代わり第2次松方内閣の文部大臣となり、翌1898年1月12日の内閣総辞職までその任にあたった[5]。その後、高等教育会議議長の地位にあったが、1905年12月には東京帝国大学の総長に再任され、戸水事件の対処などに当たった。総長在任中の1907年、「日露戦争の功」により男爵に叙爵された。
その後枢密顧問官、東宮大夫を歴任する。1921年には子爵に陞爵する。1924年には枢密院議長に就任した。1925年、内大臣平田東助が病気辞職した際、同日牧野伸顕が就任するまでの間に臨時代理を務めた。
枢密院議長を務めていた1925年9月24日に小石川区金富町(現・文京区春日)の自宅の庭を散歩中、枯葉を焼いていた焚火の穴の中に落ち、全身に火傷を負った。その後東京帝国大学病院に搬送されたが、翌9月25日に死去した[6][7]。葬儀は帝大講堂において大学葬として神式で行われた[6]。
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人物
系譜
略歴


- 1849年(嘉永2年)4月20日:出生
- 1869年(明治2年)9月:新錢座慶應義塾入塾
- 1872年(明治5年): 文部省に出仕
- 1873年(明治6年) - 1874年(明治7年): アメリカ合衆国に留学
- 1874年(明治7年): 開成学校校長心得
- 1877年(明治10年)4月: 東京大学法理文三学部綜理補
- 1885年(明治18年): 学術制度取調のためヨーロッパに派遣
- 1889年(明治22年): 東京美術学校校長事務取扱
- 1890年(明治23年)
- 1893年(明治26年)3月:帝国大学総長(第3代)
- 1897年(明治30年)11月6日:文部大臣(第2次松方内閣、在任:1898年1月まで)
- 1905年(明治38年)12月14日[12]:東京帝国大学総長(第8代)(在任:1912年8月まで)[13]
- 1911年(明治44年)8月14日[14]: 枢密顧問官。これに伴い東京帝国大学総長は兼任となる。
- 1912年(大正元年)8月13日[15]:(兼)東京帝国大学総長を辞任。
- 1924年(大正13年)1月13日: 枢密院議長
- 1925年(大正14年)
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栄典・授章・授賞
- 位階
- 1880年(明治13年)6月8日 - 従六位[17]
- 1881年(明治14年)1月21日 - 正六位[17]
- 1882年(明治15年)2月17日 - 従五位[17]
- 1890年(明治23年)1月16日 - 従四位[17][18]
- 1895年(明治28年)1月21日 - 正四位[17][19]
- 1897年(明治30年)11月30日 - 正三位[17][20]
- 1912年(大正元年)11月20日 - 従二位[17][21]
- 1924年(大正13年)2月15日 - 正二位[17][22]
- 1925年(大正14年)9月25日 - 従一位[17][23]
- 爵位
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
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著作
脚注
参考文献
関連文献
外部リンク
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