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矢島信男

日本の特撮監督 ウィキペディアから

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矢島 信男(やじま のぶお[1]1928年昭和3年〉7月24日[1][2] - 2019年令和元年〉11月28日[3])は、日本特撮監督埼玉県大宮市(現:さいたま市)出身[1][2]特撮研究所創業者。

概要 やじま のぶお 矢島信男, 生年月日 ...

経歴

要約
視点

松竹に入社

1949年東京物理学校(現:東京理科大学)理化学科を中退し[4][2]松竹へと入社[出典 1]。大船撮影所に配属される[4]。新入当時は編集から現像、直営館(浅草松竹)の窓口で切符のモギリに到るまで興行の流れを一通り体験したことが[4]、後々のコスト感覚に優れた演出への貴重な礎となっていく[5]。早くから劇場映画のカラー化に興味を持っていたことと、ジョン・フォード監督の『ハリケーン』という作品を観たことから特殊技術にも興味を持ち始め、松竹大船撮影所の特殊技術課において撮影監督を務めていた、川上景司への師事を選択する[5][6]

日仏合作映画の『忘れえぬ慕情』では助監督・キャメラ・合成を担当[出典 2]。同作で知り合ったフランスの編集マンを通じて編集作業に興味を抱くようになる[5][7]。松竹には敗戦後の公職追放によって東宝を離れていた円谷英二が顧問として在籍しており[出典 3]、帰路が同じだったこともあり、話を聞かせてもらう機会も多かったという[出典 4]。円谷から『ゴジラ』にも参加の話が来たが、松竹に在籍していたこともあり辞退している[出典 5]。また、ウルトラマンのデザインを手掛ける成田亨も『忘れえぬ慕情』の特殊技術を手伝っていた関係から[5]親交も深まり、二科展に成田の作品が入選した時は二人で祝杯を挙げている[5]

映画監督の木下恵介には、1955年の『野菊の如き君なりき』の登場人物の心情をあらわすために、楕円形のマスクをかけたカットを通じて、ドラマとして情景カットを取る姿勢を教えられている[9]

また、撮影監督の三木茂とは仕事上での接点はなかったものの、「作品を作るのは、編集でもキャメラでもなくハートである」という心構えを教わり[8]、この言葉は、その後の撮影ポリシーとなっている。

なお、カラー時代の松竹マーク(映画が始まる前の会社マークの映像)は矢島の制作したものである[9]。これは撮影仲間同士でカラー撮影の研究会をやっていた折、誰も引き受ける者がいなかったために、押し付けられた形で担当したものである[9]

東映へ移籍

1959年には、東映社長の大川博からの誘いもあって松竹を退社[出典 6]。松竹特殊技術課の縮小に伴い不要となっていたエリアルイメージ合成機を手土産に、東映東京撮影所へ移籍する[11][10][注釈 1]。同撮影所内に設立されたばかりの特殊技術課は、課長の小西昌三が予算管理などの職務を担当しており、撮影監督は松竹出身の矢島と新東宝出身の上村貞夫の2名のみ。技術スタッフも美術の成田亨や合成の山田孝など、必要最小限なチーフ担当者以外には、助手が数名ほどの規模であった。同時期の東宝特殊技術課とは比較にならぬスタッフ数や低予算を強いられながらも、矢島と上村は量産期の東映映画で多くの特撮演出を手掛ける[12][注釈 2]

東映での第1作は『高度7000米 恐怖の四時間』[13]。本作品の監督である小林恒夫とはその後も多くの作品で組むことになる[13]。また、東映京都撮影所の作品も多く手掛け[13]、東京と京都の往復で大変だったという[13][5]。その中で、1960年の『海賊八幡船』は大作扱いにもかかわらず予算オーバーの問題が発生し[13]、さらに撮影中に火災事故も発生しながらスタッフと協力してやり遂げている[13]。また、本作品の助監督を担当し[14]、後年はプロデューサーとして活躍する平山亨は、東京から来る特撮技師に関心を抱き撮影所を見に行ったところ、京都撮影所の問題点を的確に指摘して颯爽と所長室に引き上げる姿を見て「スゴイ」と感じたという[15]

後年、『宇宙からのメッセージ』などで組むこととなる深作欣二とは深作のデビュー作である『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』からのつき合いで[7][4]、撮影方法が共通するなど感覚が似ていたこともあり[16]仲が良かったという[7]

松竹の特撮はオーソドックスな形式であったのに対して東映はテンポが速い特撮を要求されるために[10]、当初は戸惑いもあったものの、二通りの撮影を経験できたことで「いい経験になった」と述懐している[10]

また、松竹時代の経験も活かして、絵コンテを用いた独自の撮影方法をこの時期に考案[5][7]。現場のセッティングを変えないまま、可能な限りのカットをまとめ撮りすることで撮影期間を短縮し[5][7]、編集によって映像の流れを組み立てていく演出はコストパフォーマンスの高さもあって、後の円谷プロダクションにおける仕事でも重宝される存在となった[5]

特撮研究所の設立

1965年、映画界が斜陽の時代を迎えたこと、および新しい技術を研究したい目的から、特撮研究所を設立する[出典 7]

1967年、『キャプテンウルトラ』の登場メカ「シュピーゲル号」は特撮初の合体メカということもあり、操演のタイミングが合わずに撮影が難航[18][4]。徹夜で作品を仕上げたという[7]。同年の『ジャイアントロボ』では、強化ガラスの上で格闘を演じさせ、真下からの仰角で撮影したり、ロボの両足越しに敵怪獣を撮るなどの、斬新な撮影手法を次々発案。また、同時期に東京で「キャプテンウルトラ」を手掛けていたために未参加であるが、同年の『仮面の忍者 赤影』では特撮スタッフが竜巻を起こすシーンが上手くいかずに困窮。そこで平山が相談に訪れたところ、「竜巻に見えれば何でもいい」と綿をドリルで回転させて竜巻に見えるアイディアを考案している[19]。予算面では特撮に理解のあった渡邊亮徳のバックアップにより、新しい合成システムを導入することができていた[4]

1969年ごろまでは、東映特殊技術課に協力する形で特撮テレビシリーズを主に手掛けていく。なお、当時の矢島は劇場映画の『海底大戦争』において、武庫透の名で特殊美術を担当していた成田亨から『マイティジャック』の仕事を誘われたものの、東映との契約を優先して成田からの誘いを辞退した[20]。他にも『キイハンター』や『プレイガール』などの作品を時折、無表記で演出。

1971年フジテレビのプロデューサー別所孝治の紹介でピープロ製作の『スペクトルマン』の特撮を担当。『スペクトルマン』の終了後、別所からの紹介で、円谷プロの『ミラーマン』の特撮を担当[7]。以後、『ジャンボーグA』を経て、TBSプロデューサーの橋本洋二に誘われて[5]、『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』に参加。

円谷プロの撮影方法は台本の順番通りに撮影していく方式であったので[5][7]、自身の同じ方向をまとめ撮りする撮影方法と異なっていたために円谷プロの撮影現場では反発もあり、スタッフと喧嘩することもあったが[出典 8]、最終的に円谷プロがバックアップしてくれた[5]

1976年ごろには佐藤肇監督と組んで『デビル・マンタ』という怪獣映画を企画する[20]が、この企画は翌年の『スター・ウォーズ』ブームによって『宇宙からのメッセージ』へ変更。

1978年の『宇宙からのメッセージ』では、50日しかない撮影日数の中で、様々な試みができたことに対して満足できたという[21]。本編監督である深作欣二とはほとんど打ち合わせをせず、「一番打ち合わせをしていないのは僕と監督」と後年のインタビューで冗談半分で答えているが[22]、本作品で「特撮監督 矢島信男」の単独クレジットを薦めたのは深作である[22]。同年放映された本作品のテレビ版である『宇宙からのメッセージ・銀河大戦』は低視聴率で終了[21]したが、フランスでは大ヒットを記録した。

1970年代後半からの東映テレビ特撮作品は特撮班が常駐せず、初期の数話や番組の節目にあたる重要な回や劇場版のみ矢島が特撮の演出をするシステムに変わり、『ジャッカー電撃隊』以降の戦隊シリーズもそういったシステムでつくられた。この時期の作品は特撮研究所の名前と主要スタッフ数名(大概は操演や美術)がクレジットされ、演出を担当した矢島の名前がクレジットされていない作品が多い。ただし、例外的に『大鉄人17』や『宇宙からのメッセージ・銀河大戦』などは特撮研究所の特撮班が常駐し、矢島が全話の特撮を演出している。『秘密戦隊ゴレンジャー』のころはメカのミニチュアはバンダイが作成していた[23]

1979年には『復活の日』の企画に関わり、南極大陸へのロケハンにも参加する予定[24]だったが実現に到らず。

1980年には、テレビ朝日と東映製作の地震映画(プロデューサー岡田裕介)の企画[25]にも関わっているが、企画は翌年に頓挫した。

バトルフィーバーJ』『宇宙刑事ギャバン』などの80年代前後の作品からはこの傾向がより顕著になり、初期の数話分において流用目的の映像を特撮研究所がまとめ撮りし、現場のアクション監督にその後の演出を任せる制作方針[26]が定着するが、全話においてスタッフロールに「特撮監督 矢島信男」とクレジットされるようになる[注釈 3]

メタルヒーローシリーズでは、『宇宙刑事ギャバン』から『特捜ロボ ジャンパーソン』まで特撮監督を務めたが[2]、『世界忍者戦ジライヤ』のみ未参加。

1990年代より、佛田洋尾上克郎といった愛弟子たちに特撮監督の座を譲り、監修的な立場に移行[注釈 4]。特撮監督としては、テレビでは『特捜ロボ ジャンパーソン』、映画では『仮面ライダーJ』が最後の担当作品となった[2]

2006年、第4回・文化庁映画賞・映画功労表彰を受賞[28][2]

2008年制作の『ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一発』の陣中見舞いにも訪れ、スタッフに感激されている[29]

2011年、日本アカデミー賞・協会特別賞を受賞[28][2]

2013年10月に同年7月に死去した平山亨のお別れの会で弔辞を述べる予定だったが体調不良のため出席を見送った[30]

2019年11月28日、老衰により死去[2]。特撮研究所の三池敏夫は、矢島は90歳を過ぎても度々会社やスタジオに顔を出していたが、死去の1年ほど前に体調を崩してからは施設に入っていたと証言している[31]

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作風

三池は矢島からの教えとして「特撮はドラマだ」という指針を挙げており、ヒーローやロボットの見せ場だけで構成するのではなく、ドラマの中でどう特撮を活かすかを考え脚本を重視することが大切であるということを教わったと述べている[31]。また、「弁えた仕事をしなさい」ということも口酸っぱく言われていたといい、仕事に夢中になっても予算やスケジュールを常に考えるよう指導されていたと述べている[31]

クレジット表記を従来は「特技監督」(または「特殊技術」)と表記するのに対して、「特撮監督」と表記することが多い。これについて「ドラマを作るのだから、技術という言葉が嫌い。技術などは後からついてくること」という考えから用いている[10]

同じ方向をまとめ撮りする撮影方法は松竹時代『忘れえぬ慕情』の撮影当時、シーン通りに編集で繋ぐと流れがスムーズな一方、迫力に乏しいことを編集で痛感したものであり[5][7]、絵コンテも東映時代、予算管理のために文章だけでは現場に伝わりにくいためにはじめたものである[5][7]。絵コンテの初期は成田に書いてもらっていたが[5]、成田が多忙になってきたこともあり自分で描くようになった[5]。『ミラーマン』に参加していた監督の東條昭平は、矢島は絵コンテを描くのでスタッフに演出の意図が伝わりやすかったと述べている[32]

テレビシリーズの特撮ステージは狭かったこともあり[7]、『ジャイアントロボ』で初めて試みられた「画面手前にキャラクターの足だけを写し出し、画面奥に別のキャラクターを配置する」撮影方法はセットが狭い分だけ距離感を出すための工夫でもあった[7]。また、視聴者が理屈抜きで喜んでみてもらうために、登場する怪獣の身体の一部(爪や角など)が飛び出してヒーローを攻撃するパターンを多用した。これについて現場からは「身体の一部が飛ぶはずがない」と反発があったものの、「トカゲの尻尾も生えてくるから」とスタッフに指示した[7]。そのために設定の段階で怪獣の性能をしっかり考えたうえで、身体のどの部分を飛ばすかを決めたという[5]

スーパー戦隊シリーズを引き継いだ特撮監督の佛田洋は、矢島から「ロボットを俳優として撮る」ということを教わっており、意思のない設定のロボットでも痛みや力強さを表現することで、視聴者の子供たちへ動きで伝えることを重視している[33]

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松竹時代の参加作品

劇場映画

テレビ作品

東映特殊技術課における演出作品

劇場映画

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特撮研究所設立後の演出作品

劇場映画

テレビ作品

オリジナルビデオ

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著書

  • 矢島信男『東映特撮物語 矢島信男伝』洋泉社、2014年。ISBN 978-4800305268
    インタビューをもとにした自伝。矢島による絵コンテも掲載。

脚注

参考文献

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