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穂積八束
日本の法学者 ウィキペディアから
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穂積 八束(ほづみ やつか、1860年3月20日〈安政7年2月28日〉 - 1912年〈大正元年〉10月5日)は、日本の法学者。東京帝国大学法科大学長。貴族院議員。法典調査会査定委員。
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人物
伊予宇和島藩士の穂積家に生まれる。鈴木(穂積)重樹の三男。長兄の穂積重頴は第二十国立銀行頭取。東京帝国大学法学部教授、民法起草者の一人である穂積陳重は次兄。正三位勲一等。前妻は伊達宗城家令・西園寺公成の長女さと(早世)、後妻は浅野総一郎(初代)(浅野財閥創始者)の長女まつ。
民法典論争に際し発表した論文『民法出デテ忠孝亡ブ』で非常に有名だが、本文中に登場する文言ではなく、穂積陳重によると題名は江木衷の発案[2]。具体的な条文の検討に及ばない内容貧弱な小論文に過ぎず、したがって明治23年の旧民法にはほとんど欠点は無かったと主張[3]されることもあるが、ほかの延期論者は詳細な検討をしているため、八束はむしろ「延期派の中でも特異な立場[4]」とする主張や、同論文は印象的なキャッチコピーが後世に与えたインパクトが強かったに過ぎず、八束が延期派の代表として旧民法を延期に追い込んだというのは俗説だという主張[5][6]もある。
また従来は保守頑迷の典型のように扱われることが多かったが、前後に発表された論文からは彼なりの西洋文明摂取の姿勢が指摘される[7]。こと財産法論に関する限り、自由主義・個人主義の原則を認めた上で、経済的自由主義の行き過ぎを批判し、国家の介入による適切な修正を主張したことは正鵠を得ているとして再評価が進んでいる[8]。オーストリアの講壇社会主義者アントン・メンガーによるドイツ民法第一草案批判と類似しており、強い影響を受けた可能性が高い[9]。結果的に八束の主張は明治民法にほとんど受け入れられず[10]、特に明治31年公布の家族法に対しては八束をして「絶望[11]」したとまで言わしめている。
日本法律学校(現在の日本大学)の設立に参画したことでも知られる。美濃部達吉らが主張した天皇機関説に対し、天皇主権説を唱えた。日本の憲法学者としては初めて体系的学説を提示した[12]が、留学帰国直後から同僚の有賀長雄や、八束を招聘した帝大初代総長渡辺洪基らの猛批判を受け、以後学会の非主流派に追いやられた[13]。弟子に上杉慎吉など。
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経歴
- 1860年(安政 7年) - 伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)に宇和島藩士・鈴木(穂積)重樹の子として生まれる。
- 1883年(明治16年) - 東京大学文学部政治学科卒業。東京大学文学部政治学研究生。
- 1884年(明治17年) - 文部省留学生としてドイツへ留学(欧州制度沿革史及び公法学修業)[14]。ハイデルベルク大学入学。
- 1885年(明治18年) - ベルリン大学に転学し、一学期を過ごした後ハイデルベルク大学に戻る。
- 1886年(明治19年) - シュトラスブルク大学に転学。同大学教授、パウル・ラーバントに師事。
- 1889年(明治22年) - 2月帰国。帝国大学法科大学教授就任(憲法)。法制局参事官。日本法律学校(現在の日本大学)設立に参画。5月、法学士会意見書により(民)法典論争開始[15]。
- 1891年(明治24年) - 兼任枢密院書記官。法学博士。4月、民法典論争に参戦し「国家的民法」発表、8月『民法出デテ忠孝亡ブ』(『法学新報』第五号)発表[16]。
- 1892年(明治25年) - 深川セメント(のちの浅野セメント)社長浅野総一郎の娘まつと結婚
- 1897年(明治30年) - 東京帝国大学法科大学長就任。
- 1899年(明治32年) - 貴族院議員。
- 1906年(明治39年) - 帝国学士院会員。
- 1908年(明治41年) - 兼宮中顧問官。
- 1909年(明治44年) - 法科大学長を免ず。
- 1912年(大正元年) - 前年、罹患した肋膜炎のため8月に依願免本官。9月13日、病を押して明治天皇の大喪の礼に強行出席し病状を悪化させ、10月5日心臓麻痺により逝去(52歳)[17]。東京帝国大学名誉教授。勲一等瑞宝章。墓所は豊島区専修院。
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栄典

- 位階
- 1891年(明治24年)12月21日 - 正七位[18]
- 1894年(明治27年)2月28日 - 従六位[19]
- 1896年(明治29年)3月31日 - 正六位
- 1898年(明治31年)
- 1904年(明治37年)2月10日 - 従四位[21]
- 1909年(明治42年)2月20日 - 正四位[22]
- 1912年(大正元年)10月5日 - 従三位[23]
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
系譜
→「穂積家 (伊予国)」も参照
鈴木重麿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
穂積重樹 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
穂積重頴 | 穂積陳重 | 穂積八束 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
穂積重威 | 穂積秀二郎 | 穂積義三郎 | 穂積隆四郎 | 千鶴子 | 万亀子 | 寿賀子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
穂積重憲 | 穂積英夫 | 穂積信夫 | 穂積忠夫 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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家族
親族
著作
- 『穂積八束博士論文集』 上杉慎吉編輯、上杉慎吉、1913年12月
- 『穂積八束集』 長尾龍一編、信山社出版〈日本憲法史叢書〉、2001年9月、ISBN 4797250488
- 単著書
- 『大日本帝国憲法講義』 法律研究会、1889年
- 『法律及勅令ニ就テ』 安井秀真、1892年5月
- 『国民教育 憲法大意』 八尾新助、1896年9月
- 『行政法大意』 八尾新助、1896年11月
- 『国民教育 愛国心』 八尾新助、1897年6月
- 『憲法提要』 有斐閣書房、1910年12月(上下2冊)
- 『修正増補 憲法提要』 有斐閣、1935年7月修正増補5版
- 『皇族講話会に於ける 帝国憲法講義』 協同会、1912年(2冊)
- 『国民道徳の要旨』 国定教科書共同販売所、1912年6月
- 『憲政大意』 上杉慎吉編纂、穂積八束博士遺稿憲政大意発行所、1917年3月
- 『憲政大意』 日本評論社、1935年7月
- 『国民道徳大意』 国民精神文化研究所、1937年10月
- 『皇室典範講義 皇室典範増補講義』 三浦裕史解説、信山社出版〈日本立法資料全集〉、2003年5月、ISBN 9784797247930
- 共著書
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脚注
参考文献
関連文献
外部リンク
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