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竹島問題
日本と韓国間の領土問題 ウィキペディアから
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竹島問題(たけしまもんだい)とは、 日本領隠岐諸島と韓国領鬱陵島との間に位置する島嶼(日本名:竹島、韓国名:独島)をめぐる日韓両国間の国際紛争・国境紛争である[1][2][3]。竹島が日本の領土であることを主張する日本国政府は同島の領有権をめぐる紛争の存在を認めているのに対して、韓国の領土であることを主張する韓国政府は同島をめぐる領有権紛争は存在していないとの立場をとっている[4]。この点について専門家の間では、日本の領土であるとする論者[1][2]だけでなく韓国の領土であるとする論者[3]も、竹島の領有権をめぐる日韓両国間の紛争が存在するとしている。
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女島(東島、写真左)と男島(西島、写真右)の2つの島、および37の岩から成る。
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概要
第二次世界大戦後、日本の領域は1952年発効のサンフランシスコ平和条約により定められた。これに先立ち、同条約の発効によってマッカーサー・ラインが無効化されることを見越した韓国の李承晩大統領は李承晩ラインを設定し[5]、竹島を韓国領として韓国側水域に含めた。その後、1965年に締結された日韓基本条約で李承晩ラインは廃止されるが、現在に至るまで韓国は竹島の実効支配を継続している。日本側は毎年韓国に「不法な支配である」との口上書を提出し、また国際司法裁判所での司法解決の提案をしているが、韓国側はこれを拒否している。
竹島(韓国名:独島)は、現在も日本・韓国双方が「歴史的にも国際法的にも自国の領土である」と主張し、北朝鮮も韓国の主張を支持している[注 1]。日本は戦後一貫して韓国に対し抗議しているが、韓国は「日本との間に領土問題は存在しない」という立場を崩していない。
日本の行政区画では「島根県 隠岐郡 隠岐の島町」、韓国での行政区画では「慶尚北道 鬱陵郡 鬱陵邑 独島里」とされている。
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双方の主張
要約
視点
外務省ホームページなどによれば、日韓双方の主張の相違点の概略は以下の通りである[6]。
日本の主張の概略
- 詳細は争点の項を参照
日本側の主張によれば、現在の竹島は江戸時代には既に日本人によって幕府公認の下で鬱陵島に渡る際の航行の目標及び船がかり(停泊地)やアシカやアワビなどの漁猟として利用されていた。その後、明治政府は1905年1月の閣議決定で無主地であった現在の竹島を島根県隠岐島司の所管としたとしている[7]。
韓国側が領有の根拠としている古文献や古地図に登場する「于山島」については、これが現在の竹島だとする主張は事実にそぐわず、根拠がないとしている。他方、日本側が現在の竹島の存在を古くから認知していたことは数多くの文献や地図から確認できるとしている(詳しくは于山島を参照)。
また、1952年に韓国が設定した李承晩ラインは一方的なものであり、加えて、その後李承晩ラインが日韓基本条約によって廃止されたにもかかわらず韓国が警備隊を常駐させ竹島を占領し続けていることに国際法上何ら根拠がないと主張している。また、日本側が平和的解決を求め国際司法裁判所に付託することを何度も韓国側へ提案するも応じていないことも問題視している。
- 日本の江戸時代の松島(現在の竹島)を示す地図
- 日本では、江戸期に現在の竹島を「松島」、鬱陵島を「竹島」と呼んでいた。(「嶋」・「嶌」は「島」に同じ)
韓国・北朝鮮の主張の概略
→詳細は「§ 争点」を参照
韓国側の主張によれば、現在の竹島(独島)は古代から于山島の名で知られている韓国の領土であり、1696年には朝鮮の安龍福が現在の竹島から日本人を追い返し日本に渡り幕府に抗議した。その後、幕府は鬱陵島(当時の竹島)と現在の竹島(当時は松島)を放棄したと判断している(日本側は鬱陵島は放棄したが、竹島は放棄していないという立場を採っている)。また、1877年に日本は太政官指令により鬱陵島と現在の竹島(松島)を日本の領土から除外しており、その後1900年に大韓帝国勅令第41号[8]が官報に掲載され、竹島(独島)は石島という名で鬱島郡(=現、鬱陵郡)の管轄となったとしている。日本側が領有の根拠のひとつにあげている1905年の竹島編入については、日本の「韓国侵略」の過程で行われたものであり、無効であると主張している。
なお、「解放」後の韓国政府は、戦後処理のうち帰属財産問題と対日賠償請求に特に力点を置いており、領土問題としては、竹島ではなく長崎県対馬の「返還」を、しばしば日本に対して要求していた[9]。1948年1月23日、南朝鮮過渡立法委院委員60名が「対馬島返還要請願書」に署名して提出し、2月17日の韓国国会でも来たる対日講和会議では対馬島「返還」の提案が立議された[9]。李承晩大統領は、大韓民国政府樹立直後の1948年8月17日の記者会見において「対馬は韓国領」との声明を発表し、9月10日には大統領特使も東京での会見で「対馬は韓国に帰属すべき」と発言した[9]。1949年年頭の記者会見でも李承晩は「対馬を返還すべき」として、対馬領有権を強く主張したが竹島への言及はなかった[9]。竹島については、米軍政期にあっても韓国の地図や文献には竹島は描かれておらず、この時期の地理の教科書や地図では韓国領土の東限を鬱陵島としており、竹島を領土外とする状態が長くつづいた[9]。「独島」返還要求は、1948年8月5日の憂国老人会という民間団体がGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーに送った請願書の中で、対馬とともに「独島」と波浪島という実在しない島の返還を求めたのが最初であった[9]。
- 北朝鮮の立場
北朝鮮による領有権の主張は、もっぱら韓国による竹島の実効支配を支持するという形で行われている。北朝鮮は竹島が軍事境界線以北に属するとは主張しておらず、黄海における北方限界線問題のような実効支配をめぐる南北間の対立は存在しない。
- 「于山」の名が残る朝鮮の古地図
- 『新増東国輿地勝覧』(1530)の付属地図「朝鮮八道総図」部分
- 1628年の地図(地図の東側、鬱陵島と朝鮮半島の間に于山島がある)
- 1600年代後半の地図(地図の東側、鬱陵島と朝鮮半島の間に于山島がある)
- 『廣輿圖』(1737-1776)(鬱陵島の東側に"所謂于山"と書かれた島が隣接している)
- 金正浩『大東輿地図』(1861)、部分(鬱陵島の東側に"于山"と書かれた島が隣接している)
- 官撰『大韓地誌』(1899)「大韓全図」部分(鬱陵島の右側に于山と書かれている)
- 「竹島」が朝鮮の領土と表示された地図
- 『竹島考證』(1882)、日本で製作され、竹島は朝鮮と同じ色で塗られている。
- 『竹島渡海由来記抜書控』(1785)、日本で製作された。
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紛争の経緯
要約
視点
第二次世界大戦後、竹島を日本の施政権から外していたマッカーサー・ラインは1952年4月のサンフランシスコ条約発効と共に廃止されるが、その直前の1月18日、李承晩が李承晩ラインを宣言し、韓国側水域に竹島を含ませた。日本政府は同月28日に「公海上の線引きに抗議するとともに、竹島に領土権を主張しているかのように見えるがそのような僭称または要求を認めない」との見解を示した[10]。この時点では韓国の竹島に対する領土権の主張は不確実であったが、2月12日に韓国は反論を提示。以降、両国間で竹島の領有権をめぐって文書を交換するようになった[10]。李承晩ラインは韓国が宣言したものであり、日本政府もアメリカ政府もこれを国際法上不当なものと抗議した。1952年7月26日、サンフランシスコ条約発効と同時に日米安全保障条約を発効させた日米両政府は、竹島をアメリカ軍の訓練地として日本が提供することを約する協定を締結したが[11]、竹島周辺海域で漁業を行っている日本人漁民から強い抗議を受けて爆撃演習場から除外をしている[12]。韓国政府はこれをアメリカが竹島を韓国領土として認めて配慮をしたと解釈し、韓国側の竹島領有の根拠の一つとしている[13]。翌1953年1月12日、韓国は李承晩ライン内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示し、同2月4日には第一大邦丸事件が発生、済州島付近で操業中に漁撈長が韓国軍から銃撃を受け死亡した。同4月20日に韓国の独島義勇守備隊が竹島を占領して以降、韓国警察の警備隊が続けて駐屯している。日本政府は当初より韓国側の不法占拠であるとの声明を出して抗議し続けているが[14]、韓国政府は「李承晩平和線(李承晩ラインの韓国側での名称)は国際的先例のある韓国の主権行為であり、さらにこの問題は1965年の漁業権交渉と請求権交渉ですでに解決済みであって、日本政府があたかもまだ解決されていないかのように宣伝するのは政治的プロパガンダである」との立場を取っている(なお、1965年の漁業権交渉と請求権交渉で領有権交渉については棚上げにされている)。日本は、現在も領土問題は解決に至っていないと主張しているが、韓国側はやはり「そもそも独島に領土問題は存在しない」という立場を崩していない。
→「マッカーサー・ライン」および「李承晩ライン」も参照
竹島の漁業経済価値と排他的経済水域問題

竹島は険しい岩山で面積も狭く島自体から得られる利益はほとんど無いが、周囲の広大な排他的経済水域 (EEZ) の漁業権や海底資源の権利が存在する。現在この島のEEZ内で石油などの海底資源は特に見つかっておらず、現在最も問題になっているのは漁業権である。竹島と周辺海域の経済価値は、1952年の日本の水産庁によれば130億円(李ライン内)、1974年の島根県漁連の算出では年間漁獲高は76億円[15]、2010年の韓国の算出では年間11兆5842億ウォン(約8600億円)である[16]。現在の日韓漁業協定では竹島周辺海域に共同水域を設けているが、韓国側の違法操業が問題になっている。
当時の国際海洋法から見た李承晩ライン
→詳細は「李承晩ライン」を参照
1952年の李承晩ラインの狙いは漁場としての利益であったともされ、韓国による近海漁業の独占が目的であったとされる[17]。1951年の国際法委員会草案では「いかなる場合にも、いかなる水域も漁業を行おうとする他国民を排除してはならない」と排他的独占権は認めておらず、また「管轄権は関税徴収や衛生目的のものであり、沿岸国が漁業を独占するための管轄権は認められない」とも記されている[18]。海洋法からみても違法である[18]が、1952年1月の李承晩ライン設定に関して1958年に制定された海洋法を適用することは法律の遡及に当たり無効という考えもある。このような漁業独占権宣言は、1945年のトルーマン宣言を曲解した、アルゼンチン、ペルーなど南米諸国にも起こったが、トルーマン宣言の「水域は他国と合意された規程により統制管理される」とした内容にも反しており国際問題になっていた(李承晩ライン#トルーマン宣言参照)。海洋法の制定された1958年以前は、抗議する日本に対し韓国は李承晩ラインを韓国の主権行為として反論している。1956年4月13日、日本の重光葵外相は、韓国の李承晩ラインを認めることはできないが、韓国に拿捕された漁民を救出するためには、韓国に寛大な姿勢を見せることも必要ではないかと発言している[注 2]。
1958年以降、日韓会談においては漁業管轄権を国際海洋法の観点から否定する日本に対して韓国側は反論できなかったが[18]、李承晩ラインは1965年の日韓基本条約まで解消されることはなかった。
韓国軍による日本人漁民殺害と日本漁船拿捕
朝鮮戦争中の1952年1月18日に韓国の李承晩大統領によって海洋主権宣言に基づく漁船立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)がひかれ、竹島が韓国の支配下にあると宣言した。1952年のこの宣言から1965年の日韓基本条約締結までに、韓国軍は李承晩ライン越境を理由に日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷させ、3,929人を抑留した[7]。1947年から1965年末までに日本人8人の死亡が確認されている[20]。韓国側から日本の海上保安庁 巡視船への銃撃等の事件は15件におよび、16隻が攻撃された。
1953年1月12日、韓国政府が李承晩ライン内に出漁した日本漁船の徹底拿捕して以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。同年2月4日には第一大邦丸事件が発生した。済州島付近で操業中の同船が韓国側に銃撃を受け、漁撈長の瀬戸重次郎が死亡した。
独島義勇守備隊と韓国警察の竹島上陸


1953年4月20日には韓国の民間組織独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯。6月24日、日本の水産高校の船舶が独島義勇守備隊に拿捕される[21]。6月27日に日本の海上保安庁と島根県の9人が水産試験船で竹島に上陸し竹島調査を行い、『日本島根縣隠地郡五箇所村竹島・・・』と書かれた標識を建て、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。すると、7月12日に竹島に上陸していた韓国の独島守備隊が日本の海上保安庁巡視船「へくら」(PS-9[21]) に90mの距離から機関銃弾200発を撃ち込む事件が起きる[21]。
1953年10月15日、韓国の山岳界を代表する韓国山岳会の有志会員らが写真家を伴い、徐徳均大尉が指揮する海軍905艇で竹島に渡った。上陸した山岳会調査隊の構成メンバーは、測地班、記録班、報道班など。彼等は、日本が建てた『日本島根縣隠地郡五箇所村竹島』の標識を引き抜いた。その後、洪鍾仁(韓国山岳会会長、当時の朝鮮日報主筆)[22]は、彼等が持って来た石碑を設置した。この石碑には、表面に「독도」「獨島」「LIANCOURT」(正式フランス語名称は“Rochers de Liancourt”)、裏面に「한국산악회(韓国山岳会)」「KOREA」「ALPINE ASSOCIATION」「15th AUG 1952」等と刻まれている[23]。
以後、韓国は鬱陵島の警察官約40名を竹島に常駐させており、日本の艦船の接近を認めていない。また独島の西島には韓国人夫婦が定住している。竹島は毎年韓国軍による独島防衛訓練が行われている[24]。日本政府はこの韓国による竹島実効支配に抗議しているが、韓国側は独島は韓国固有の領土であるとして「内政干渉」であると言い張っている。
なお当時韓国には拿捕の法的根拠である漁業資源保護法は施行されておらず、日本漁船拿捕は国際法また韓国国内法においても非合法的な行為であった[25]。この韓国の行為に対して日本の水産庁は「他国の類似事例とは比較にならないほど苛烈」と評した[26]。しかし、韓国側は1952年1月18日の大韓民国海洋主権宣言が拿捕の根拠であるとしている。
また、韓国李承晩体制下に行われた一連の行為を、1960年、駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世は、アメリカ国務省への機密電文(機密電文3470号)の中で「国際的な品行や道徳等の基本原理を無視した実力行使の海賊行為」と表現し、「日本人は李承晩の占領主義的手法で苦しんでいる」と訴えている。
金鍾泌による竹島爆破提案

1962年10月20日の大平正芳外相との会談で金鍾泌中央情報部長は、国際司法裁判所への付託を拒否したが、米国務省外交文書集によれば、金鍾泌は日本側に竹島問題の解決策として竹島破壊を提案していた[27]。金鍾泌は、東京での池田勇人首相および大平外相との会談後、訪米。1962年10月29日のディーン・ラスク国務長官との会談において、ラスクが「竹島は何に使われているのか」と問うたところ、金鍾泌は「カモメが糞をしているだけ」と答え、竹島破壊案を自分が日本側に提案したと明かした[27]。
のちに韓国国内で「独島爆破提案説」が問題視された際、金鍾泌は「日本には絶対に独島を渡すことはできないという意思の表現だった」と弁明している[28]。また2010年の朝鮮日報の取材に対して金鍾泌は「国際司法裁判所で日本のものだという判決が出ても、すべてを爆破してなくしてしまってでも、あなたたちの手に渡すつもりはない」と激高して発言したと回想している[29]が、これは米国務省外交文書集「東北アジア1961-1963」収録関連会談記録の様子とは趣が異なる。
竹島密約
日韓基本条約締結おける障害の一つであった竹島問題に関し、韓国の雑誌「月刊中央」2007年4月号で、日韓基本条約締結5ヶ月前の1965年1月11日に、日本の河野一郎建設相の特命を受けた宇野宗佑衆議院議員が、ソウルで朴健碩 汎洋商船会長の自宅で丁一権首相に会い、「未解決の解決」を大原則に全4項からなる竹島付属条項に合意していたとした。その密約は翌日の1月12日に朴正煕大統領の裁可を受け、宇野は13日に河野大臣を通じ佐藤栄作首相に伝えたとしている[30]。
「月刊中央」の客員編集委員だったロー・ダニエルは金鍾泌の兄で銀行家の金鍾洛に対するインタビュー取材をおこなったが、そのなかで金鍾洛は韓国と日本が竹島問題を「今後解決すべきものとしてひとまず解決と見なす」というアイデアは自分が出したと述べたうえで「こうして独島密約は結ばれ、当時の朴正煕軍事政府は韓国が韓半島の唯一の合法政府という明言を日本から受けること、経済開発に必要な経済協力資金の確保という2つの問題をともに解決したことになった」と明らかにした[30]。
竹島密約は「解決せざるをもって、解決したとみなす。従って、条約では触れない」という2文を中心に、
- 独島(竹島)は今後、韓日両国ともに自国の領土と主張することを認め、同時にこれに反論することに異議を提起しない。
- 将来、漁業区域を設定する場合、両国が独島(竹島)を自国領土とする線を画定し、2線が重複する部分は共同水域とする。
- 現在韓国が占拠した現状を維持する。 しかし警備員を増強したり新しい施設の建築や増築はしない。
- 両国はこの合意をずっと守っていく。
という4つの付属条項を付けていたとしている[30][31]。こうした密約が実際にあったかどうかについては、今後の歴史学者の研究に委ねられるとしても、国交正常化当初は、両国ともこの密約にしたがうような穏やかな立場からの相互の見解表明より日韓関係が開始していたことは事実である[31]。しかし、1993年に成立した金泳三政権時代以降の韓国では、竹島問題をめぐる感情的な対日批判が先鋭化するようになり[31]、また、同政権が竹島に新たに接岸施設を建設したことで、(密約があったとしても)付帯条項3.の約束は明白に破られたことになる[30]。
2007年3月20日、塩崎恭久官房長官はこのことについて「政府としてはそのような密約があるとは承知していない」と否定した。
日韓基本条約と日韓両国の紛争の平和的処理に関する交換公文
1965年の日韓基本条約調印によって李承晩ラインが正式に廃止されたが、竹島の領有権に関しては日韓双方譲らないため、紛争処理事項として棚上げされた。
また、日韓基本条約締結に伴い「日韓両国の紛争の平和的処理に関する交換公文」が取り交わされた。そこには外務部長官李東元署名による韓国側書簡として
「両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争は、まず外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかつた場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によつて解決を図るものとする」 |
とある。この公文には竹島、または独島という名称は記載されず、一般的な「紛争」についてだけ記載された。竹島問題は李承晩の海洋宣言以来の紛争事項であるが、韓国側は竹島・独島は紛争事項ではないという立場をとっている。
なお、日本側は日韓国交正常化に至る1951年から1965年までの外交交渉文書の開示を拒み続けている。この文書には竹島問題について日韓双方の発言や、昭和天皇と韓国高官とのやりとりなどが含まれているという[32]。
日韓漁業協定以降
1965年の旧日韓漁業協定では竹島問題については棚上げされた。1980年前後には韓国漁船が山陰沿岸および北海道近海にまで出漁(密漁)し、日本の漁業者と係争が起こった。島根県のシイラ漁漁船は35統から8統にまで激減する[33]。
1996年に日韓両国は国連海洋法条約を批准。それに基づき新日韓漁業協定の締結交渉が開始され、両国の中間線を基準に暫定水域を設定、この海域において双方の漁獲が制限付きで認められた。日本側の配慮により日本が大幅に譲歩した暫定水域は、日韓共同で利用する協定であった。しかし、その後も韓国漁船が漁場を独占し、日本漁船が操業できない状態が続いている[25]。さらに韓国漁船は日本側の排他的経済水域(EEZ)にまで侵入するなど不法な漁業行為を行い、また竹島の周辺海域では韓国軍が頻繁に監視を続けている。また、竹島近海の海底地名の命名、および海底地下資源に関する調査活動を巡り、EEZ問題が再燃、EEZ確定交渉が再開されたものの、平行線を辿っている。
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争点
要約
視点
竹島を巡る争点には次のようなものがある。
- 誰が最初に発見し、実効支配をしたか
- 島の同定(于山島、鬱陵島、竹嶼、竹島、松島、石島、観音島ほか)
- 1905年の日本による竹島編入の有効性
- 戦後の GHQ による竹島処分の解釈
- 1952年の韓国による軍事占拠(李承晩ライン問題も含む)
竹島の領土権原
国際判例に照らすと、以下の通り[34]。
- 日本の領土権原(日本側の主張による)
- 歴史的な権原において江戸幕府は現在の竹島を領土と見なしており、日本に領域権原が存する。
- ただし、歴史的な権原は近代的な権原に置き換えられる方が好ましい。
- 韓国の領土権原(日本側の主張による)
- 17世紀末に民間の朝鮮人(安龍福)が、日本における「竹島(鬱陵島)・松島(現在の竹島)」の呼称を朝鮮の「鬱陵島・于山島」に当てはめ、松島は于山島であるという認識を持ったとしても(以来、朝鮮文献に松島=于山と記述)、朝鮮人の言う于山島と日本人の言う松島は朝鮮の地図を見る限り明らかに一致していない。
- 18世紀以降朝鮮の官撰史書等に松島=于山と記載されているが、朝鮮は現在の竹島への実地の知見や訪問記録がない(于山島が別の島竹嶼を示す史料が多くある)。
- 1900年に大韓帝国が勅令で「石島 (韓国)」を鬱陵島の行政管轄権に入れており、韓国は石島を独島(現在の竹島)と主張するが、その根拠がない。
- したがって韓国には歴史的な権原というべきものがない。
- (いずれも一国の領土権の確立に不充分で、無主地の要件は満たされる。なお、日本が日露戦争中に独島を侵奪したという韓国側の反論があるが、奪ったという議論は、竹島が韓国の領土であったことが証明されない限り成り立たない。)
最初の発見者
発見は未完の権原とされ、相当の期間内に植民地を設置するなどといった活動によって確定的な権原としたり、占領の意思が継続していることを示すのでなければ領有とは言えない[35]。
決定的期日
→「決定的期日」も参照
他国の抗議等により紛争が顕在化した日(決定的期日)以降の法的立場の改善を目的とした活動は、領有権の根拠になり得ないとされている[41]。国際裁判所によってこの決定的期日が設定されると、特殊な事情が存在しない限り決定的期日以前に存在した事実のみ証拠能力が認められることとなり、決定的期日以降に当事国が自国の立場を有利にするために行った活動は証拠として認められないこととなる[42]。竹島問題の決定的期日が具体的にいつの時点であるかについて学説は一致していないが、下記表の時点が決定的期日の候補として挙げられている[42]。
近年の国際司法裁判所の判例では、国際司法裁判所は紛争発生時を決定的期日として設定する傾向がある[42]。この傾向にならえば、李承晩ライン設定に対して日本が韓国に抗議を行った1952年1月28日が決定的期日として設定される可能性が高いと言える[42]。しかし決定的期日が設定されなかったり、将来紛争が国際司法裁判所に付託される未来の時点に決定的期日が設定される可能性も完全に否定できるわけではない[42]。例えばマンキエ・エクレオ諸島事件の国際司法裁判所判決では決定的期日が設定されなかったとの指摘も一部には存在する[42]。そうした場合には、韓国が竹島を半世紀以上にわたり占拠してきた事実や、それに対して日本が抗議し続けてきた事実も証拠として考慮されうることとなる[42]。
日本による竹島編入の有効性

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日本政府は、竹島であしか漁を営む国民個人からの領土編入貸下願を契機に、1905年1月28日閣議決定をもって島根県への編入を決定し、同年2月22日、島根県知事松永武吉により告示された。同5月、松永知事は、竹島を官有地台帳に登録し、同6月あしか漁許可、翌1906年3月に県は実地調査も行う。同7月以降漁業者に貸し付けて歳々官有地使用料を徴収。
日本の竹島編入措置は、国際法のいう先占によった。先占の要件は、対象地が無主地であること、国家の領有意思をもってする実効占有である。
- 閣議決定文
北緯37度9分30秒...ニ在ル無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク......明治36年以来中井養三郎ナル者カ該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ関係書類ニ依リ明ナル所ナレハ国際法上占領ノ事実アルモノト認メ之ヲ本邦所属トシ...
- 無主地
無主地という点については、
- 1) 17世紀末に民間の朝鮮人(安龍福)が個人的な地理認識を持ったとしても、朝鮮政府は実地の知見すらなく、また于山島を竹嶼と示す資料などもあり、資料的かつ歴史的な領土認識においても、不確証である。韓国にはそもそも歴史的な権原というべきものの存在が推定の範囲を出ない。
- 2) 1900年に大韓帝国が勅令で「石島」を鬱陵島の行政管轄権に入れており、韓国は石島が今日の竹島と主張するが、石島が現在の竹島である明確な証拠は何もない。
- これらはいずれも領土権の確立に充分とは言えず、無主地の要件は満たされる。
- 国家の領有意志
日本の領有意思は、閣議決定、県知事告示(新聞でも報道)、先占以降の主権者としての行為により明示される。
- 実効占有
実効的な占有については、国家は私人の行為の追認をもって国家占有とできるので[注 7]、日本は閣議決定で追認を行い、かつ国有地台帳への登載、あしか漁業許可、 国有地使用料の継続徴収など国家占有の行為があり、「国家権能の平穏かつ継続した表示」を継続していた。(なお韓国による軍事占領は「国家権能の平穏かつ継続した表示」には当たらない)以上、伝統的な領土取得方法としての「先占」の要件が具備されたほか、1905年の日本による竹島編入について、韓国側は「法的に不十分な手続きで、秘密裏に行われたもので非合法」とするが、当時の国際法から見ても、また先占の要件を満たしていることからも十分に合法であり、また「秘密裡」という表現は当時の告示と報道からしても当たらない。なお、判例においては「秘密裏に実効支配をすることはできない」とされており、特定の編入手続きではなくその実効性が争点となる。
- 通知義務
実効性以外に通知の手続きを要するとの主張がなされることがあるが、パルマス、クリッパートンの判例において通知義務は否定され、通知義務を支持する国際法学者もごく少数である。
1877年に陸軍や1882年に地理省[どれ?]が制作した『大日本全圖』には、二つの島は日本領から除かれている。
終戦後 サンフランシスコ平和条約締結までの竹島の扱い
GHQ677・1033号覚書
→詳細は「SCAPIN」を参照
GHQ の「連合国軍最高司令官総司令部覚書」677号 (Supreme Command for Allied Powers Instruction Note No.677) 「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」では、日本の領土は北海道・本州・九州・四国およびその隣接する島々とされ、鬱陵島や済州島などを除外するとした。その除外される島のリストに彼らが Liancourt Rocks と呼んでいた竹島が含まれていた[49]。 また、同1033号[50]「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」でも、日本漁船の活動可能領域(これを「マッカーサー・ライン」という)からも竹島は除外されている[49]。韓国はこれらを根拠に、李承晩ラインを制定して日本漁船を排除する線を引き、ライン内部に立ち入った日本漁船に対して拿捕・銃撃を行ったとその正当性を主張している。
シーボルド勧告

1947年3月19日版のサンフランシスコ平和条約草案では「日本は済州島、巨文島、鬱陵島、及び、竹島を放棄すること」と記載があったが、1949年11月14日のウィリアム・ジョセフ・シーボルド駐日政治顧問による竹島再考勧告において、日本側の主張が正当であるとし竹島の記載は削除された[51]。その次の草案では竹島は連合国の合意として再び日本が放棄する島々となったが、その後1951年の最終版まで、竹島を日本が放棄する島々より削除している。そして竹島は韓国領土条項から削除された。
ラスク書簡
→詳細は「ラスク書簡」を参照

1951年、韓国政府はアメリカ政府へ、竹島と波浪島(実在しない島)を日本の放棄領土とすることを要望するが、同年(昭和26年)8月10日、アメリカ政府は、国務次官補ディーン・ラスクより、竹島は日本領であることを韓国政府に最終的な回答として提示した。しかし、翌1952年1月18日に韓国が李承晩ラインを宣言した。
日本政府はこのラスク書簡によって「竹島は日本の領土」というアメリカ政府の意向が韓国政府に示されたと解釈している[52]。
As regards the island of Dokdo, otherwise known as Takeshima or Liancourt Rocks, this normally uninhabited rock formation was according to our information never treated as part of Korea and, since about 1905, has been under the jurisdiction of the Oki Islands Branch Office of Shimane Prefecture of Japan. The island does not appear ever before to have been claimed by Korea.
(独島、もしくは、竹島、または、リアンクール岩として知られている無人の島については、我々の情報によれば、かつて韓国の一部として扱われたことはなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島庁の管轄下にありました。この島について韓国によりこれまで領土主張されたことはありません。)
—1951年8月10日アメリカ合衆国元国務次官補ディーン・ラスク(ラスク書簡抜粋)
その他交文書等
1951年5月にイギリスとオランダが行ったサンフランシスコ平和条約作成についての会合の中で、竹島を日本領とするアメリカの提案に同意した事を示す公文書や、同年7月にオーストラリア外務省が釜山駐在の外交官に宛てた電報が存在する[53]。
サンフランシスコ平和条約締結
1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約の第2条(a)項において、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とあり竹島を日本の放棄する島から除外している。
サンフランシスコ平和条約締結後
ラスク書簡の再通知
サンフランシスコ平和条約後、日米安保条約に基づく行政協定において1952年7月に竹島を爆撃演習地とすることが日米間で合意されたが[58]、日米に無断で竹島へ調査をしていた韓国人が爆撃に遭遇し韓国政府がアメリカに抗議を行った。韓国の抗議書簡において「韓国領の独島」とされていたことに対して、1952年12月4日に釜山のアメリカ大使館は「アメリカの竹島の地位に関する認識はラスク書簡の通りである」と韓国外務部に再度通知を行った[注 13]。しかし、1955年に韓国外務部が作成した「獨島問題概論」では、このラスク書簡に触れた部分を「etc.」で省略したアメリカ大使館の書簡を掲載したことが確認されている[62][63]。また、韓国の国際法学者である金明基[64]は、この韓国政府によって隠滅されたアメリカ大使館の書簡によってアメリカの意思が「独島は韓国の領土」と変更されたものとし、ラスク書簡が無効との論拠としている[65]。
ターナー覚書
東京領事ウィリアム・テイラー・ターナーは、1953年11月30日付けで「リアンクール論争に関するメモランダム」を本省に提出した[66]。ターナーはこの覚書でまず、ポツダム宣言とラスク書簡をもとに竹島問題にアメリカが不可避的にかかわるべき、というアリソン大使の態度に反対し、この問題に介入すれば「敗者側に永遠の憤りをもたらすだけにおわる干渉」(which could only create lasting resentment on the part of the loser) となるので、不介入で中立政策を採るアメリカ政府の立場を支持する。ターナーによればこの件は、ソ連が占領した色丹島問題と似ている。アメリカは「色丹島が日本の主権に属する」と公式に声明したが、日本はアメリカに対して安保条約に基づく武力行使を要請してこなかった。したがって竹島問題についても、日本人が安保条約を呼び出すのではないかと過度に不安になる必要はない。ただし、「遅かれ早かれ、日本人はラスク書簡について嗅ぎ付け (Sooner or later the Japanese will get wind of the Rusk letter)」、我々がそれを知らさなかったことに憤慨するであろうから、ここで手を打っておいたほうがいい、として以下の行動を提案する。それは韓国側にラスク書簡を示し、それが受け入れられないならば日本と和解するか、国際司法裁判所で解決することを勧める。そして衝突がこれ以上続くならば、ラスク書簡を公にしたうえで、この件の仲介から手を引く、というものである。
ヴァン・フリート特命報告書
→詳細は「ヴァン・フリート特命報告書」を参照

ジェームズ・ヴァン・フリート
1954年、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領の特命大使としてアジアを訪問したジェームズ・ヴァン・フリートの特命報告書には、「竹島が日本の領土であること、アメリカの紛争への不介入、国際司法裁判所への付託提案」について書かれ、非公式に韓国政府へ伝達したことが報告されており、竹島を日本領とするシーボルド勧告を追認している。
- 要旨
- 一方的な海洋主権宣言(李承晩ライン)は違法[注 14]。
- アメリカ政府はサンフランシスコ講和条約において竹島は日本領土であると結論している。
- この領土問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれる。
When the Treaty of Peace with Japan was being drafted, the Republic of Korea asserted its claims to Dokto but the United States concluded that they remained under Japanese sovereignty and the Island was not included among the Islands that Japan released from its ownership under the Peace Treaty. The Republic of Korea has been confidentially informed of the United States position regarding the islands but our position has not been made public. Though the United States considers that the islands are Japanese territory, we have declined to interfere in the dispute. Our position has been that the dispute might properly be referred to the International Court of Justice and this suggestion has been informally conveyed to the Republic of Korea. (日本との平和条約が起草されていたとき、韓国は独島の領有を主張したが、米国は同島は日本の主権下に残り、日本が放棄する島の中に含まれないと結論づけた。米国は内密に韓国に対し、同島は日本領だとする米国の見解を通知しているが、米国の見解はまだ公表されていない。米国は同島が日本の領土であると考えているが、紛争に干渉することは拒んでいる。我々の立場は紛争が適切に国際司法裁判所に付託されることであり、非公式に韓国に伝達している。)
—1954年(ヴァン・フリート特命報告書 抜粋)
マッカーサー2世による電報

→「s:ja:国務省機密電文3470号」も参照
8年間続いた韓国の李承晩体制が終焉を迎えた1960年、次の政権に移行するときに当時駐日アメリカ大使であったダグラス・マッカーサー2世が、本国国務省に向けて日韓関係改善のためにアメリカが行うべき行為を機密電文で提言している。この電報には、明確に「日本の領土である竹島」を日本に返還させるよう韓国政府に圧力を加えるべきである、と記載されており、1960年当時でさえアメリカはラスク書簡当時と変わらぬ認識であったことが確認できる。同時に、李承晩の外交を「野蛮な人質外交[67]」と非難し、(李承晩ラインによる拿捕によって)人質となった日本人漁民を解放させるように圧力をかけるべき、とも記されている。また、(李承晩後の)新体制になっても姿勢が変わらない場合は、最低限、この件を国際司法裁判所に付託し、仲裁を求めることに合意するよう主張すべきである、という提言も付されている[68]。
- 要旨
- 韓国に違法に拿捕された日本人漁師の人質を全員解放させること。
- 日本の漁船を公海上で拿捕する行為をやめさせること。
- 韓国に人質外交 (hostage diplomacy) をやめさせること。
- 不法占拠された竹島を日本に返還させること。
- 竹島が日本に返還されるまで、日韓全体の和平が決着することはない。
国際法上における主権移転
国際法上、一時的な占領は主権の移転を意味せず、たとえ占領等により主権が著しく毀損されていたとしても元の保有国の同意がなければ、主権の移転は発生しない[注 15]。主権の移転には、戦後の処置に関して連合国が竹島の放棄を日本に要求すると共に、日本が竹島の権原や主権の放棄に同意することが重要となる。
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アメリカ合衆国の立場
ラスク書簡、ヴァン・フリート特命報告書などで示されている通り、アメリカは竹島は日本領であるとの立場を示していた。しかしながら、アメリカにとっては韓国も日本も同盟国であるため、この問題は国際司法裁判所での裁定や話し合いによって解決されるべきという立場であり、この問題に対する見解を表明することには消極的である。
国務省の外交公電[71]によると、2006年4月にはジョン・トーマス・シーファー駐日大使が谷内正太郎外務事務次官と面談した際に竹島問題について言及し、日本を「国際法の許容範囲内で権利行使をしている」と擁護した[72]。また韓国を「非理性的に行動している」と非難した[73][74]。1952年10月に発行した海図において対馬は「Tsushima」と表記されている[75]。
2011年の日韓での竹島問題の再燃に際して、アメリカ国務省は8月2日、両国に自制を促し、 米国務省トナー報道官は「リアンクール岩礁の主権について私たちは(特別な)立場を持っていない」ともした[76]。
2014年、アメリカ国務省領事局は、韓国旅行情報ページからは竹島を消し去り、日本領土との姿勢を示した。同時に日本海についても韓国の主張する「東海」標記から「日本海」と改めた[77]。
2015年は、アメリカ中央情報局(CIA)が作成する「ザ・ワールド・ファクトブック」は竹島をリアンクール岩礁の名称で、日本の地図に「1954年に韓国に占領されたリアンクール岩礁に対して韓国と日本が領有権を主張している」の説明と共に表記している(韓国の地図には、「独島」および「リアンクール岩礁」の表記はない)[78]。
アメリカ地名委員会のウェブサイトの地名データベースでの登録情報では、Liancourt Rocksは「Geopolitical Entity Name」「First-Order Administrative Division Name」の項目が「South Korea」となっている[79]。
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平和的解決への模索
→「国際司法裁判所」も参照
竹島領有権問題に関して、これまで日本政府は4度、国際司法裁判所 (ICJ) への付託を韓国側に提案してきたが、いずれも韓国は拒否し続けている。
- 日本政府は1954年9月25日に韓国に対し ICJ への付託を提案したが、紛争地域ではないという理由で韓国は拒否。
- 1962年3月に行われた日韓外相会談の際にも、日本の小坂善太郎外相が ICJ 付託を提案したが、韓国の崔徳新外務部長官は拒否した[80]。
- 1962年11月に訪日した金鍾泌中央情報部長に対して、大平正芳外相が竹島問題を ICJ に委ねることを提案したが、これも拒否された[81]。
- 2012年8月21日、韓国の李明博大統領が竹島に上陸したことから、日本はこれに反発して韓国に対し ICJ に合意付託すること及び日韓紛争解決交換公文に基づく調停を行う提案をしたが、同月30日、韓国政府より応じない旨を口上書で日本政府に回答した。
ICJへの付託は、義務的管轄権がない紛争の当事国が拒否すれば裁判を行うことができない。韓国はこの義務的管轄権を受諾しておらず、韓国政府が付託に同意しない限り竹島領有権紛争を ICJ で解決することはできない。しかし、裁判の手続きはできなくとも付託は当事国の一方のみでも可能であることから、この問題を世界に提起する意味で日本だけでも付託すべきだという考えもある(現在まで日本は付託を一度も行っていない)。 これまでに領土問題を ICJ で解決した事例は世界で16件に上るため、日本政府は韓国に対し竹島の一方的な占拠をやめてICJによる平和的解決をするよう要望している(国際司法裁判所で解決した領土紛争を参照)。
日本による国際司法裁判所への最初の付託提案を、韓国側は1954年10月28日の公文で、以下のようにと述べている。
紛争を国際司法裁判所に付託するという日本政府の提案は、司法的な仮装で虚偽の主張をするまた一つの企てに過ぎない。韓国は、独島に対して始めから領土権を持っており、この権利に対する確認を国際司法裁判所に求めなければならない理由は認められない。いかなる紛争もありえないのに擬似領土紛争を作り上げるのは、まさに日本である。 |
しかしながら、紛争の存否は、客観的判定または当事者間の合意によって決定されるのであり、紛争当事国の一方が「存在しない」と言えば紛争が無くなるわけではない。ICJ 判決でも国際領土紛争の存否は客観的に判断されるべきことが確認されている[83]。
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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