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函谷関の戦い (紀元前241年)

春秋戦国時代の戦い ウィキペディアから

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函谷関の戦い(かんこくかんのたたかい)は、紀元前241年に発生した[注 1][注 2]の五国合従軍の合戦[2]。軍の配置や動員兵力等の戦闘の詳細は不明である[3]。この戦い以降、合従軍は起きることがなく、秦による六国併合が進んでいくこととなる。

概要 函谷関の戦い, 交戦勢力 ...
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過程

紀元前242年蒙驁を攻撃し、酸棗長平雍丘山陽など20城を奪い[4]東郡を置いた[2][5]。これによりを除く、五国とは国境を接するようになった[2]。おそらく、これが函谷関の戦いの発生の原因であると考えられている[2][6]

紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕は、秦を共同で攻撃するために合従軍を組んだ。楚の考烈王を縦長(総大将)とし、実務を春申君が執り仕切った[7]

合従軍は秦の寿陵[注 3]を取り、函谷関を攻撃した[8]

合従軍に対して、秦軍は函谷関で迎え撃った。全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた相邦呂不韋と考えられている[2]。また、函谷関で秦軍の指揮を執った将軍は不明だが、過去の戦歴等を考慮すると蒙驁が指揮を執ったと考えてもおかしくないとされる[2][9]

また、今回の合従軍では以前(函谷関の戦い(紀元前318年)函谷関の戦い(紀元前298年)河外の戦い)とは異なり、函谷関を攻める軍以外の、別働隊を用意していた[10]。趙の龐煖が趙・楚・魏・燕の四国の精鋭部隊を率いて(現在の始皇帝陵の付近[9])を攻めたが、落とせなかった[11]。蕞は秦の国都咸陽にかなり近く、秦は滅亡の危機に陥っていた[5]

函谷関でも秦軍が攻撃すると、合従軍は敗走した[8]。その後、合従軍は与しなかったに目標を移して攻撃し、饒安(現在の河北省滄州市塩山県の南西)を占領して解散した[11]

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『史記』の記述

この戦いの『史記』の記述は非常に少なく簡素である[3]

  • 秦始皇本紀』:(始皇)6年、韓・魏・趙・衛・楚が共同して秦を攻撃し、寿陵を取った。秦が出兵すると五国の兵は退いた。
  • 趙世家』:(悼襄王)4年、龐煖は趙・楚・魏・燕の四国の精鋭部隊を率いて秦の蕞を攻めたが落とせなかった。
  • 楚世家』:(考烈王)22年、諸侯と共に秦を討伐したが、不利となって撤退した。
  • 春申君列伝』:諸侯は秦の攻伐が止まないことを憂慮し、そこで互いに合従を結び、西の秦を討伐した。函谷関に到達した時、秦軍が出撃して攻撃すると諸侯の兵は全て敗走した。

影響

函谷関の戦いは、戦国時代で秦を攻撃した合従軍の最後の戦いだった。以降、六国は次第に秦に併合され、紀元前221年に秦は天下を統一した。

脚注

参考文献

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