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陘城の戦い

春秋戦国時代の戦い ウィキペディアから

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陘城の戦い(けいじょうのたたかい、繁体字:陘城之戰、簡体字:陉城之战)は、紀元前264年を攻めた戦争。

概要 陘城の戦い, 交戦勢力 ...

范雎は魏の国相魏斉の迫害を受けて、秦に亡命した[1]。范雎は秦の昭襄王客卿の身分で進言した。「穣侯はいま韓や魏と結んでを討とうとしているが、これは間違いです(仮に勝って領土を奪ってもそれを保持することができないため)。それよりも遠く(・斉)と交わり、近く(魏・韓)を攻めるべきです。そうすれば奪った領土は全て王のものとなり、更に進出することができます」と。これが著名な遠交近攻である[2]。昭襄王は范雎の策を受け入れ、韓と魏への侵攻を始めた。

紀元前264年、秦の昭襄王は武安君白起に韓の陘城(現在の山西省臨汾市曲沃県の北東)に侵攻するように命じて、韓の陘城を含む、9つ(あるいは5つ)の城邑を取り、韓軍5万を斬首した。この戦いが陘城の戦いである[3][4]

紀元前263年、白起は軍を率いて、南陽の太行山道を封鎖した。

紀元前262年、白起は再び韓を攻めて野王を取り、上党郡と韓の本土が切断され飛び地となった。上党郡守は趙に投降することを決めたが秦が侵攻した[5][6]。これが40万人の穴埋めで著名な長平の戦いである。

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脚注

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