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藤原基長

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藤原 基長(ふじわら の もとなが)は、平安時代中期から後期にかけての貴族藤原北家御堂流内大臣藤原能長の長男。官位正二位権中納言

概要 凡例藤原基長, 時代 ...

経歴

後冷泉朝天喜3年(1055年叙爵し、翌天喜4年(1056年侍従に任官する。天喜5年(1057年右近衛少将に遷ると、康平6年(1063年従四位下治暦3年(1067年)右近衛権中将、治暦4年(1068年)正月に従四位上と近衛次将を務めながら昇進を重ねる。

同年7月に後三条天皇即位に伴って正四位下に昇叙されると、同年12月に蔵人頭に補される。のち、治暦5年(1069年従三位次いで正三位延久2年(1070年従二位と、後三条天皇の側近として権勢を奮った父・藤原能長の譲りを受けて急速に昇進を果たした。

白河朝初頭においても、延久4年(1072年参議、延久5年(1073年正二位と昇進を続け、議政官として引き続き近衛中将を兼帯した。しかし、承暦4年(1080年位階が下位(従二位)であった藤原宗俊源師忠藤原伊房に権中納言昇進で先を越されると、基長は出仕を止めてしまい、承暦5年(1081年)10月に不出仕を原因として職封を止められる。翌永保2年(1082年)正月に権中納言に昇進するが、同年11月に後ろ盾であった父の内大臣・藤原能長を喪った。

応徳2年(1085年)春宮・実仁親王が没する。後三条天皇は実仁親王のあとは同母弟の輔仁親王を立てるように遺言していたが、白河天皇はこの遺言を無視して、応徳3年(1086年)実子の善仁親王(堀河天皇)を春宮に立て、その日のうちに譲位してしまった。これに際して、基長は輔仁親王を支持したために天皇の不興を買ってしまう[2]。その後、基長は兼官を帯びないまま約9年に亘って権中納言のみを務めた。寛治5年(1091年)権中納言を辞任と同時に弾正尹に任ぜられ、以降はこれのみを帯びている。

承徳2年(1099年)12月26日に出家嘉承2年(1107年)11月21日に薨去享年65。

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官歴

公卿補任』による。

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系譜

尊卑分脈』による。

脚注

参考文献

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