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藤原資季

鎌倉時代前期から後期の公卿。藤原北家道綱流、藤原資家 (従三位)の長男。正二位権大納言。侍従。 ウィキペディアから

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藤原 資季(ふじわら の すけすえ)は、鎌倉時代前期から後期にかけての公卿二条資季とも。藤原北家道綱流、藤原資家 (従三位)の長男。官位正二位権大納言二条と号す。

概要 凡例藤原資季, 時代 ...

経歴

承元元年(1207年)、従三位藤原資家の息男として誕生。

母は参議九条光長の娘(宜秋門院帥)。琵琶で名高い二条大納言藤原定能の孫。歌人として知られる内大臣衣笠家良は定能の娘が母であり、資季とは従兄弟同士である。

子・資氏弘安7年(1284年)に病により出家したので、孫・資高を子として跡を継がせたという[2]

日記『荒涼記』(資季卿記)を残した。残欠日記である『荒涼記』(資季卿記)は延応2年から正元元年までの記事が部分的に残っており、改元の際の勘申の様子や亀山天皇即位時の様子などが詳しく記されている。

官歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

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『徒然草』第135段の資季

資季は『徒然草』第135段に登場する。「お前が質問してくる程度のことだったら、何でも答えてやろう」と源具氏に持ちかけたところ、『むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんどう』というなぞなぞを問いかけられた。この難問に答えられず歯ぎしりしてしまう様が描かれていて、資季は具氏にごちそうをふるまうことになったのである。資季は具氏に「わぬし」と声をかけており、比較的親しい関係であったと推測できる。資季は具氏の父通氏よりも少し年長なのである。

資季の母

資季の母は九条光長女とされているが、『尊卑分脈』甘露寺家の系譜を見ると、海住山長房の子女の中に藤原資家の室となり藤原資季の母となった女子の記述がある。いずれが正しいか検討の余地がある。

系譜

脚注

出典

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