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豊田誠佑

日本のプロ野球選手、コーチ (1956-) ウィキペディアから

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豊田 誠佑(とよだ せいすけ、1956年4月23日 - )は、東京都練馬区出身の元プロ野球選手外野手内野手)、プロ野球コーチ。右投右打。1988年から1997年までの登録名豊田 成佑(読み方同じ)。

概要 基本情報, 国籍 ...
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来歴・人物

日大三高では、右翼手として1974年春の選抜に出場。向陽高を破り2回戦に進むが、銚子商高土屋正勝に抑えられ敗退[1]。この大会の本塁打記録は1本と珍しい大会であったが、その1本は豊田が土屋から打ったランニングホームランであった。

高校卒業後は、明治大学へ進学。東京六大学野球リーグでは3度の優勝を経験。

1977年春季リーグで首位打者を獲得。

1978年春季リーグでは鹿取義隆高橋三千丈の両エースを擁し、中心打者として優勝に貢献。直後の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で中尾孝義らのいた専大を降し優勝を飾る。1977年から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表に選出。リーグ通算62試合出場、203打数63安打、打率.310、5本塁打、26打点。首位打者1回。ベストナイン2回。

同年オフに、ドラフト外中日ドラゴンズに入団。即戦力の巧打者として期待される。

1980年には7月から右翼手、二番打者として起用され63試合に先発出場。

1981年三塁手も兼ね、規定打席には届かなかったが打率.292の好記録を残す。

1982年、故障がもとで1年先輩の平野謙にレギュラーを奪われることとなり、その後の活路を右の代打・守備要員に見出す。同年の西武との日本シリーズでは4試合に出場、日本一は逃すものの、第4戦では9回表に適時打を放ち勝利に貢献した。

1987年は9月下旬から一番打者として起用され、打率.315と活躍。

1988年は不調が続き、同年限りで引退。

現役引退後は大学先輩の星野仙一監督の下でコーチとなり、関東・北信越地区担当のスカウトを務め、2008年シーズン終了時より堂上照に代わりナゴヤ球場に隣接する選手寮「昇竜館」の館長に就任[2]。2014年シーズン終了後退任した[3]。その後は、名古屋で居酒屋を営む[4]

実弟の豊田和泰(外野手、日大三高~明大~日本鋼管)は明大4年時の1980年春に首位打者を獲得しており、東京六大学初の兄弟首位打者として話題となった。

江川キラー

大学時代から1学年上の江川卓と相性がよく、「江川キラー」として名を馳せた[5]。1982年9月28日、9回裏2-6から全盛期の江川を打ち崩した奇跡の同点劇は、豊田のレフト前ヒットから始まったとされている(同年の中日リーグ優勝のターニングポイントとする意見も多い)。

ただし記録上は、大学通算14打数8安打(うち7安打は3年時に記録)・打率.571、プロ通算46打数11安打(うち2本塁打)・打率.239(上述のヒットを放った1982年は12打数2安打)と、突出しているわけではない[6]

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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

記録

背番号

  • 25(1979年 - 1988年)
  • 75(1989年 - 1991年)
  • 88(1992年)
  • 98(1993年 - 1994年)
  • 97(1995年)
  • 73(1996年 - 1997年)
  • 81(2003年)

登録名

  • 豊田 誠佑 (とよだ せいすけ、1979年 - 1987年、2003年)
  • 豊田 成佑 (とよだ せいすけ、1988年 - 1997年)
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脚注

関連項目

外部リンク

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