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醍醐冬熙
江戸時代中期の公卿 ウィキペディアから
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醍醐 冬熙(だいご ふゆひろ)は、江戸時代中期の公卿。従一位左大臣。初名は冬実(ふゆざね)・昭尹(あきただ)。一字名は召。号は後信性普明寺。
概要
主に東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の四帝にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。
経歴
元禄元年(1688年)に従五位上に叙される。元禄9年(1696年)に従三位左近衛中将となり公卿に列する。権中納言や踏歌節会外弁・右兵衛督を経て、宝永元年(1704年)権大納言となった。宝永5年(1708年)には皇太子長宮慶仁親王(中御門天皇)の春宮権大夫となる。翌年、皇太子の即位に伴い辞職。正徳元年(1711年)神宮伝奏に任じられ、享保11年(1726年)までの長期間にわたって務めた。その間の享保9年(1724年)には右近衛大将・右馬寮御監に任じられている。享保12年(1727年)には踏歌節会内弁をつとめた。享保13年(1728年)には内大臣となるも辞職。享保14年(1729年)には従一位が授与され、延享2年(1745年)には右大臣となるも辞職する。寛延元年(1748年)には左大臣となるも翌年に辞職している。
家族・親族
系譜
醍醐家
醍醐家は、一条昭良の子である醍醐冬基を始祖とし、清華家の一つであった。
→詳細は「醍醐家」を参照
皇室との関係
後陽成天皇の男系三世子孫(曾孫)である。後陽成天皇の第九皇子で一条家を継いだ一条昭良の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。
関連項目
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