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鈴木孝雄 (野球)
日本のプロ野球選手、コーチ (1938-) ウィキペディアから
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鈴木 孝雄(すずき たかお、1938年4月21日 - )は、愛知県名古屋市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。
息子は、元プロ野球選手の鈴木俊雄。
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来歴・人物
中京商業では捕手として甲子園に3度出場。2年次の1955年の夏の甲子園では、1年上の長坂育也(日立製作所)、同期の安井勝の両投手を擁し準決勝に進出するが、この大会に優勝した四日市高に敗退[2]。3年次の1956年の春の選抜は順調に勝ち進み、決勝で安井が県岐阜商の清沢忠彦に投げ勝ち、優勝を飾る[3]。同年の夏の選手権は準々決勝で米子東高に敗れたが[2]、秋の兵庫国体決勝で甲子園で敗れた米子東高を、延長10回1-0で降し優勝を飾る。他の同期に星山晋徳一塁手、富田虎人外野手(中日)、1年下に本間勝投手、小川敏明捕手がいた。高校卒業後は法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは山崎正之、新山彰忠とバッテリーを組み、4年次の1960年春季リーグに優勝。捕手としてベストナインに選出される。同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で山尾孝雄投手を擁する同志社大を延長14回の末に破り初優勝を飾る。山崎以外の大学同期に田中和男一塁手、山本一義外野手がいる。
大学卒業後の1961年に南海ホークスへ入団[4]。1年目の同年から野村克也の控え捕手として一軍に定着し、32試合に出場して6試合に先発マスクを被る。同年の巨人との日本シリーズでは、10月24日の第2戦(大阪)の9回裏に代打として起用されるが、二飛に終わり最後の打者となった。その後も控え捕手として起用されるが、1966年以降は出場機会に恵まれず、1968年限りで現役を引退[4]。
引退後は南海→ダイエーの二軍バッテリーコーチ(1969年 - 1971年, 1973年 - 1977年, 1983年 - 1984年)、一軍バッテリーコーチ(1972年, 1987年 - 1990年)、一軍ブルペンコーチ(1978年 - 1981年)、二軍チーフコーチ(1986年)を務めた[4]。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
背番号
- 17 (1961年 - 1968年)
- 62 (1968年 - 1978年)
- 72 (1979年 - 1981年)
- 72 (1983年 - 1984年)
- 77 (1986年 - 1988年)
- 88 (1989年 - 1990年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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