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A.J.バーネット
アメリカの野球選手 (1977 - ) ウィキペディアから
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アラン・ジェームズ・バーネット(Allan James Burnett, 1977年1月3日 - )は、アメリカ合衆国アーカンソー州リトルロック出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
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経歴
要約
視点
プロ入りとメッツ傘下時代
1995年のMLBドラフト8巡目(全体217位)でニューヨーク・メッツから指名を受け、プロ入り。
マーリンズ時代
1998年2月にアル・ライターとトレードで、フロリダ・マーリンズへ移籍。
1999年8月17日にロサンゼルス・ドジャース戦でメジャーデビューを果たし、初勝利を記録した。
2001年5月12日のサンディエゴ・パドレス戦でノーヒットノーランを達成。球団タイ記録となる9四死球を出しながらのノーヒッターとなった[1]。この時、バーネットは129球を投じたが、ストライクは半分の65球しかなかった[2]。この年初めて規定投球回を上回り、2桁勝利を達成した。
2002年は8月19日から9月13日までの間故障者リスト入りとなったが、12勝9敗、203奪三振(リーグ6位)、5完封(リーグ1位)の成績を残し、ホーム戦では全5完封を記録し、被安打率.190(リーグ3位)の好成績を残した[3]。
2003年に4月29日の登板の後、トミー・ジョン手術を受けて全休した。
2004年6月3日の登板でメジャー復帰を果たし、7勝6敗、防御率3.68の成績を残した。
2005年は、12勝12敗、防御率3.44という成績で終えた。5月31日のピッツバーグで行なわれたピッツバーグ・パイレーツ戦で先発した際、PNCパークのスピードガンが時速104マイル(約167km/h)を記録[4]。これまで世界最速であった、サンフランシスコ・ジャイアンツの元守護神ロブ・ネンやニューヨーク・ヤンキースのランディ・ジョンソンの持つ時速102マイル(約164km/h)を更新したのか、と騒がれた。しかし、球場関係者がスピードガンを調整したところ、時速99マイル(約159km/h)程度に落ち着いたことや、バーネットが前回の先発予定試合を右ヒジの炎症で回避したことから、疑問の声が多く[要出典]、世界最速新記録には認定されていない。一方で対戦打者のフレディ・サンチェスは「ホントにあのボールの速さはこれまで体験したことのないすごいものだった。みんなは彼のスピードに懐疑的だったけど、僕はあの時、本当に104マイル出ていたと信じているよ」と語っている[5]。
ブルージェイズ時代
(2008年5月22日)
2006年、5年総額5500万ドルという契約でトロント・ブルージェイズに移籍[6]。開幕を故障者リスト入りで迎え、4月15日に故障者リストから復帰を果たし、同日のシカゴ・ホワイトソックス戦で先発した[7]。シーズン2試合目の登板となった4月21日のボストン・レッドソックス戦で右肩痛により長期離脱を余儀なくされる(ただし、MRIや医師の診断によると、肩の異常は認められていない)[要出典]。2006年後半から復帰し10勝を記録した。
2007年はDL入りを2回としたものの10勝を記録し、マーリンズ時代から数えて3年連続2桁勝利。奪三振数は投球回数を初めて上回る176を記録した。
7年連続で故障者リスト入りをしていたが、2008年はリスト入りすることなくリーグ最多の34試合に先発登板。防御率は前年より悪化したが、自己最多の18勝を記録し、231奪三振で最多奪三振を獲得。バーネットの5年契約には3年目終了時に契約を破棄してFAとなる権利があるため、シーズン途中にシカゴ・カブスやフィラデルフィア・フィリーズへ移籍の噂もあったが、J・P・リッチアーディGMが移籍を否定[8]。結局、移籍せずシーズンを終えた。
11月4日、契約に含まれていた破棄条項を行使し、フリーエージェントになることが決まった[6]。
ヤンキース時代

FAとなったバーネットを巡っては、アトランタ・ブレーブスが4年総額6000万から6500万ドル(5年目のオプションを含めると8000万ドル)の金額を提示したが、ヤンキースがそれを上回る金額を提示[9]。そして、バーネットは12月18日に5年総額8250万ドルでヤンキースと合意[10]。
ヤンキース1年目は、一度も先発を飛ばすことなく33試合に先発登板し、207イニングを投げて13勝、防御率4.04を記録。6月20日のマーリンズ戦の3回に、MLB史上39人目となる「1イニング9球で3奪三振」(immaculate inning)を達成。正捕手のホルヘ・ポサダと相性が悪く、バッテリーを組むことを拒否した[11]。ポストシーズンでは5試合に登板、好不調の波が大きかったが、フィリーズとのワールドシリーズ第2戦で好投するなど、9年ぶりの優勝に貢献した。
2010年は10勝15敗、防御率5.26とフルに稼働したシーズンでは自己最悪の成績となった。9月には右目の周りに大きな痣を作って球場に現れ、様々な憶測を呼んだ[12]。
シーズンの不調から地区シリーズでは先発を外れたが、テキサス・レンジャーズとのリーグ優勝決定戦の第4戦に登板、しかし6回5失点で負け投手となった。
2011年も先発ローテーションを守ったが、11勝11敗、防御率5.15と成績を伸ばすことはできなかった。地区シリーズの第4戦のデトロイト・タイガース戦では他の先発陣が軒並み乱調の中、6回途中1失点と勝利に貢献したが、結局チームは2勝3敗でシリーズを敗退した。
ヤンキースでの3年間は99試合に登板(先発98試合)して34勝35敗、防御率4.79。3年間先発投手としてフル回転した点で、前後してヤンキースに所属しながら登板することすらままならなかったカール・パバーノや井川慶とは異なるが、後述のように結局年俸負担付きで放出に至ったこともあり、高額な契約には見合わないとの見方が強く、彼らと同様、近年のヤンキースが締結したFA契約の中では代表的な失敗例として挙げられることも多い[13]。
パイレーツ時代

(2012年6月14日)
ヤンキースとの契約期間は2年残っていたものの、チームはトレードによる放出を検討。ロサンゼルス・エンゼルスのボビー・アブレイユとのトレードは東海岸への居住を望む家族の意向でバーネットが拒否したが、2012年2月19日、残りの契約2年総額3300万ドルのうち2000万ドルをヤンキース側が負担する条件のもと、マイナー2選手とのトレードで、パイレーツに移籍した。
2012年3月1日、打撃練習中にバントの自打球を頬に当てて骨折[14]。開幕を故障者リストで迎え、4月21日に復帰した。5月2日のセントルイス・カージナルス戦では2.2イニングを12失点と大炎上したが[15]、それ以外はフル回転し、2008年に次いで2番目に多い16勝を記録した。
2013年4月17日のカージナルス戦で史上68人目、現役では4人目となる通算2000奪三振を達成。7月に故障者リスト入りしたものの30試合に先発登板し、防御率は自己最高の3.30、奪三振率(K/9)はリーグ1位の9.85を記録。チームの21年ぶりの勝ち越し・ポストシーズン進出に貢献した。オフの10月31日にFAとなった。
フィリーズ時代

(2014年7月1日)

(2014年7月6日)
2014年2月16日にフィリーズと1600万ドルの1年契約(2015年のオプション1275万ドル・トレード拒否権付き)[16]で契約した[17]。
同年は5月20日、マーリンズ戦に勝利し、MLB全30球団勝利を達成した。しかし、全体的に成績を落とし、負け数は、ナショナルリーグのワースト1位だった。オフに2015年の契約オプションを破棄し、FAとなった。
パイレーツ復帰
2014年11月14日にパイレーツと850万ドルの1年契約を結んだ[18][19]。前述のように、フィリーズとの間ではより高額の契約オプション権を持っていたが、あえて年俸減で古巣を選んだ形になった。
2015年2月19日、2015年シーズン限りで現役を引退する意向を表明した[20]。7月6日に自身初のオールスターゲームに選出された[21]。
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選手としての特徴
最多奪三振(2008年)、最高奪三振率[K/9](2008年、2013年)、最多与四球(2009年)、最多暴投(2009年、2011年)、最多与死球(2010年)を相次いで記録していることが示すように、制球難の課題を抱えつつも、空振りを奪える威力のある球種を投げ分ける。軸となる91-94マイルの速球(フォーシーム、高速シンカー)の他、ナックルカーブ、チェンジアップが主な持ち球である。スライダーのように大きく変化するカーブは44%と高い空振り率を誇り、チェンジアップで多くのゴロを奪っている[22]。
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
タイトル
- 最多奪三振:1回(2008年)
記録
- MLBオールスターゲーム選出:1回(2015年)
- ノーヒットノーラン:1回(2001年5月12日、対サンディエゴ・パドレス戦)
背番号
- 43(1999年 - 2001年)
- 34(2002年 - 2015年)
脚注
関連項目
外部リンク
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