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ダイナマイト打線

阪神タイガースの打線の愛称 ウィキペディアから

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ダイナマイト打線(ダイナマイトだせん)は、阪神タイガースの強力打線愛称である。

概要

タイガース打線の代名詞であり、日本初の打線ネーミングである。1946年、破壊力抜群のタイガース打線を形容して日刊スポーツの高山方明が命名し[1]1947年の優勝時に広まった。藤村富美男別当薫土井垣武のクリーンナップを軸に、金田正泰後藤次男ら好打者が並ぶ布陣だった。毎日オリオンズ大洋ホエールズなどによる選手の引き抜きにより、後に第一次と呼ばれるこのダイナマイト打線は1949年を最後に解散した[1]

その後、強力打線がタイガースで結成されるたびに用いられ、初の日本一に輝いた1985年を新ダイナマイト打線[2](第二次)、18年ぶりのセ・リーグ制覇を飾った2003年を第三次、チーム打率.290を誇った2010年を第四次という。また、まだダイナマイト打線命名前の1930年代後半を第零次と呼ぶこともある。タイガースの打線は一般的に「猛虎打線」と呼ばれるが、「ダイナマイト打線」は打線が特に強力だった時期にのみ使われる。

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歴代のダイナマイト打線

要約
視点

第零次(1930年代)

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この時期の阪神はチーム出塁率が非常に高く、1936年秋季シーズン〜1938年春季シーズンまで4期連続で出塁率3割6分を超えていた[3][4][5][6]。特に1937年春には出塁率.371、1938年春には出塁率.377を記録した。

第一次(1946年-1949年)

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※成績は1949年のもの。

※ダイナマイト打線の名がつけられた1946年のチーム打率はトップの.288。2位のグレートリングには.015の差をつけ、打率十傑には首位打者の金田以下4人が入った。チーム打率は1949年までトップを続け、比較的少なかった本塁打数も別当が入団した1948年に2位、1949年にはトップになった。ただしこの期間、優勝は1947年のみで、1949年には6位に終わる。これは投手力が劣っていたためであり[1]、特に1946年は戦後すぐということもあり、中でも第零次の際中心選手だった岡田、景浦、西村を始め日本野球連盟加盟球団で最も多い14人の在籍経験者が戦死した阪神は野手の藤村と呉が2桁勝利を記録するほど選手不足だった。

第二次(1985年)

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1985年にも強力打線によって優勝を果たし、再び「ダイナマイト打線」と呼ばれるようになった。メディアでは、新ダイナマイト打線[2]ニューダイナマイト打線とも呼ばれた。OPS.841は歴代2位、219本塁打は歴代4位である。

1985年4月の「バックスクリーン3連発」に代表されるように、ランディ・バース掛布雅之岡田彰布のクリーンナップ3人が揃って打率3割30本塁打をマークする活躍を見せた。また、1番に足も速いがクリーンナップ並の長打力を持つ真弓明信を固定したところ、1番打者であるにもかかわらず34本塁打、84打点をマーク。この年、真弓、岡田は生涯最高の好成績を残している。一方で対大洋戦での本塁突入時に元同僚の若菜嘉晴との交錯で怪我で約1ヶ月間戦線を離脱した。

特徴として、レギュラーメンバーがシーズン中ほとんど固定であったことが挙げられる。絶対的レギュラーでなかったのは2番・センターと8番・キャッチャーで、2番は北村照文吉竹春樹弘田澄男の併用。8番は木戸克彦(レギュラー)、山川猛(第2捕手)、嶋田宗彦(第3捕手)であったが、その他の選手はほとんど変えられることは無かった(バースの休養日には長崎啓二が3番を打った)。また、打順の並びもほとんど変えられなかった。1985年の日本シリーズでは弘田は2番・指名打者で出場し、第4戦からは不調の佐野に代わって長崎が6番・左翼手として出場した。

豪打ばかりが目に付くものの、1985年の阪神はリーグ1位の141犠打を記録するなど小技にも長けた。

第三次(2003年)

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太字はリーグトップ

広島東洋カープから金本がFA移籍で入団し打線の中核を担ったことで打線の厚みが増し、強力打線を形成。赤星、金本の2、3番コンビが「金星ライン」と呼ばれ高い得点力を誇った他、矢野、藤本の2人が下位打線であるにもかかわらず3割を超える打率を残したことで他球団から「恐怖の下位打線」と恐れられた。また代打の切り札として八木が活躍、後半のチーム失速時には広澤が4番を務め、今岡が怪我で離脱した際は沖原が代役を務めるなど控えの層も厚かった。結果として140試合で728得点と1試合5点以上を獲る得点力を発揮し18年ぶりとなるリーグ優勝の原動力となった。

打順変更やポジションコンバートの他、アリアス、片岡の退団や鳥谷敬アンディ・シーツの入団などにより多少の変更点はあったものの、この年形になった「第三次ダイナマイト打線」としての基本型は2007年頃まで引き継がれた。

第四次(2010年)

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第一次ダイナマイト打線時代の復刻ユニフォームを着た試合で3試合連続2ケタ得点や球団記録の22得点を記録、4、5点リードされていながら終盤3イニングのみで10点前後を奪って逆に大勝することも少なくなく、選手の個人成績でも往来のダイナマイト打線を彷彿させる成績を残し、中日巨人と激しい優勝争いを演じたことで各メディアでもこの名が広く使われるようになった。

最終的に中日とわずか1ゲーム差の2位に終わったが、チーム打率.290でチーム記録を更新し、3割打者は5人に上り、90打点以上を5人が記録した。新外国人マートンが主に1番打者を務め、鳥谷と打順を入れ替えることもあった。守備位置は前年限りで引退した赤星憲広に代わりセンターを任され、金本が先発を外れた時はレフトを守ることも多かった。

シーズン序盤は4番に金本、8番に桜井という形だったが、金本の右肩故障による不調で4月17日の横浜戦(横浜スタジアム)を最後に世界記録である連続フルイニング出場の記録が1492試合で途絶えた後は新井が主に4番を務めた。また、不調の桜井に代えて林や浅井、葛城育郎、新人の藤川(現登録名「俊介」)を起用したり、関本や坂克彦を二塁手で起用し、平野が右翼、中堅へ廻るなど外野手は完全には固定されていなかった。AKB砲も参照。

阪神の中では近年稀にみる重量打線となったが、鳥谷と桜井以外が外様出身ということで、スタメンの平均年齢は約32歳と若くはなかった。加えて、翌2011年から使用球が全球団ミズノ社製の低反発球に統一されたこともあり(いわゆる「統一球」)、上位打線は各選手とも打率は3割前後を維持したが、チーム本塁打数や総得点は激減した。本塁打はブラゼルが約三分の一、鳥谷が約四分の一に激減。城島は負傷で長期離脱となり、結果としてダイナマイト打線は2010年限りとなった。

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補足

  • 2003年の第3次については、当時の田淵打撃コーチが「今のタイガース打線には『いてまえ打線』(近鉄)のような愛称がない、愛称が欲しい」と発言したことを受けて、日刊スポーツ(大阪版)が読者に「新愛称」を募り、その結果を中面で全面を使って公表したことがある。ただ、当時の星野監督が「(ネーミングは)時期尚早」と却下したことで、そのままお蔵入りになった。
  • 2005年の優勝当時の打線については、これまた日刊スポーツ(大阪版)がシーズン中に、独自で『ダイナまいど打線』と命名している。
    • 2010年8月19日付の日刊スポーツ(大阪版)でも、再び『ダイナまいど打線』のフレーズを使っている。

脚注

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