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本堂保次
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本堂 保次(ほんどう やすじ、1918年3月18日 - 1997年6月8日)は、大阪府八尾市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。
本名は本堂 安次(読みは同じ)。1952年から1962年は本堂 保弥(ほんどう やすや)、1963年以降は本名(コーチ時代の1969年のみ本堂 安治〈読みは本名と同じ〉)を登録名としていた。
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経歴
旧制日新商業学校から、1937年に大阪タイガースに入団。堅実な守備と頭脳的なプレーが持ち味の二塁手として活躍。1941年に応召し、1943年までは出場できなかった。除隊後の1944年に復帰。
戦後の1948年には10年選手制度により大陽ロビンスに移籍する[1]。しかし、同年オフに二塁手を求めていた阪神監督の若林忠志の誘いを受けると、本堂自身も「自分の持てる技量を存分に発揮できる球団に行きたい」として、わずか1年で阪神に復帰した[2]。さらに、1950年のセ・パ両リーグ分立に際して、若林・別当薫・呉昌征・土井垣武・大館勲らと共に毎日オリオンズに移籍。1952年と1954年 - 1956年にはコーチを兼任したが、1958年に現役を引退。
その後は1959年から1962年まで二軍監督、198163年から監督を務めたがすべてBクラスに終わり、1965年シーズン途中休養し退団。1968年から1971年、1974年から1981年まで近鉄のコーチ、二軍監督を務めた。
1997年6月8日、肺癌のため死去。79歳没。
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選手としての特徴
現役時代の主なポジションは二塁手だったが、公式戦では投手を除く全守備位置での出場経験がある。守備の名手と称される選手の一人だが、一方で1イニング4失策という不名誉な日本記録の保持者でもある[3]。
当時としては珍しく、相手選手のプレーの特徴や癖などをメモに記載し、独自の分析をしてプレーに役立てていた。このため、「サイン盗みの名人」という異名を取った。本堂によると、苅田久徳に憧れて二塁手を目指したが、日新商業時代からチームのライバルを出し抜くために考えた結果だという[4]。太陽ロビンス監督時代の藤本定義が本堂のサイン盗みを阻止することに挑んだが、試合後本堂から「(実際には藤本が出していなかった)スクイズのサインだけは見破れなかった」と言われ、それ以外のすべてのサインは本堂の見抜いたとおりであったことに驚愕した、という逸話が『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(1991年)に記されている(同書P57)。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 大阪(大阪タイガース)は、1940年途中に阪神(阪神軍)に球団名を変更
通算監督成績
- 430試合 203勝227敗10分 勝率.472
表彰
- ベストナイン:1回 (1950年)※二塁手部門でのパ・リーグ史上初の受賞
記録
- 節目の記録
- その他の記録
背番号
- 24 (1937年 - 1940年、1946年 - 1947年、1949年 - 1955年)
- 8 (1948年)
- 30 (1956年)
- 54 (1957年 - 1958年)
- 60 (1959年 - 1960年、1962年 - 1963年、1968年 - 1971年)
- 55 (1961年)
- 50 (1964年 - 1965年)
- 75 (1974年 - 1981年)
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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