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神戸ファッション造形大学短期大学部
廃止された大学 ウィキペディアから
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神戸ファッション造形大学短期大学部(こうべふぁっしょんぞうけいだいがくたんきだいがくぶ、英語: Kobe College of Fashion and Design)は、兵庫県明石市明南町2-1-50に本部を置いていた日本の私立短期大学である。
概観
大学全体
- 兵庫県明石市に所在した日本の私立短期大学で、設置主体は学校法人福冨学園であった。同学園経営の神戸ドレスメーカー女学院(神戸市中央区)創立30周年記念事業として1967年に明石女子短期大学として開学した[3]。
- 初代学長の福冨芳美は最初から男女共学を希望していたが、服飾系の短大に男子は来ないという周囲の声に配慮し、やむなく女子短大として発足させた。しかし、女子のみの校風が定着すると共学化がさらに難しくなると判断し、2年後に明石短期大学と改称して共学化に踏み切った[4]。
- 1990年以降は短大名に「神戸」と冠していたが、所在地は神戸市ではなく明石市であった。
- かつては3学科を擁していたが、神戸ファッション造形大学開学後の2005年度入学生より、服飾系の学科のみとなった。
- 2009年度の入学生を最後に[注釈 2]、2011年に短期大学としての使命を終える[注釈 3]。
建学の精神(校訓・理念・学是)
明石短期大学
- 豊かな人格をそなえた人材の育成
- 幅広く応用し得る専門技術
- よりよき実生活の創造[11]
神戸ファッション造形大学短期大学部
- 建学の精神は「人・創造・未来」となっていた。これは創始者である福冨芳美による言葉である。
教育および研究
明石短期大学および神戸文化短期大学
神戸ファッション造形大学短期大学部
- ファッションデザイン学科 - ファッション業界で活躍するに相応しい人材育成に力をいれていた。
学風および特色
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沿革
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基礎データ
所在地
- 兵庫県明石市明南町2-1-50
- 校地は野々池貯水池に隣接していた。1967年の明石女子短期大学開学時は一面の田園地帯で、周囲のめぼしい施設は兵庫県立明石南高等学校があっただけだったが、その後徐々に宅地化が進み、1977年に明石市立野々池中学校、1978年に神戸市立王塚台中学校、1980年に明石市立沢池小学校・幼稚園、1986年に神戸市立出合小学校が開校するなど、文教地区としての性格を帯びるようになった。
- 閉学後の2013年に校舎は解体され[72]、それ以降は住宅の分譲地となった[73]。
校歌
- 明石短期大学校歌
- 明石短期大学学苑歌
- 中村正昭 作詞、武岡徹 作曲
当時の交通アクセス
象徴
- 右記資料を参照のこと[注 36]
教育および研究
組織
学科
明石短期大学および神戸文化短期大学
神戸ファッション造形大学短期大学部
- ファッションデザイン学科 入学定員70名[注 37]
専攻科
- 造形専攻 入学定員30名[注 38]
別科
- なし
取得資格について
研究
学生生活
部活動・クラブ活動・サークル活動
学園祭
大学関係者と組織
大学関係者一覧
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教職員
協力者
出身者
施設
キャンパス
明石短期大学時代には以下の施設があった。
- 前庭 - 高さ22mのケヤキの大樹が植えられていた[30]。
- 管理棟 - 事務局、理事長室、学長室、応接室、医務室など[92]。
- 1号館 - 学生ホール、食堂、繊維・絵画・インテリアデザイン・染色・調理・服飾の実習室[92]。
- 2号館 - 染織デザインコースの実習室、就職相談室、学生ロッカー室など[92]。
- 3号館 - 大講堂、階段教室、普通講義室、LL教室、英文タイプの実習室があり、主に教養学科が使用した[92]。
- 福冨記念館 - 1階に図書館、視聴覚ホール、情報管理室、大会議室、2階に記念ホール(体育館兼用)があった[93]。
- テザイン実習棟 - 木工、彫金、彫塑、立体造形などの制作が行われた[92]。
- グラウンド - ポプラの木々が並び、ベンチも置かれていた[94]。
寮
- 水苑寮(100名収容)
対外関係
他大学との協定
オーストラリア
系列校
社会との関わり
卒業後の進路について
就職について
- 就職先として教員、官公庁、繊維会社、百貨店、研究所、デザイナー、設計事務所、広告会社、各種図書館、公共施設、その他一般企業などが挙げられる[97]。
編入学・進学実績
出来事
- 明石短期大学は1990年4月1日に神戸文化短期大学と改称した。しかし、1990年度用の入試要項では校名変更を予告しておらず、『福冨学園50年史』でも校名変更の理由説明は皆無であり、改称時に学科再編や新校舎開設を伴わないなど、不自然な点が目立つ。1989年7月23日に起きた悲劇的な出来事[88]との関連性は不明だが、少なくともこの校名変更が入念な準備の下で行われたものでないことは明らかである。
- 1993年5月、神戸文化短期大学の学生寮で寮生32人がサルモネラ菌による食中毒の症状を訴え、このうち17人が入院した。原因は寮生らが13日夜に食べた給食のオムレツとみられ、給食業者は3日間の営業停止処分を受けた[99]。
- 1998年10月6日午前1時50分頃、神戸文化短期大学の校舎1階の絵画教室から出火。消防車8台が出動して消火活動にあたり、約50分後に鎮火したが、教室内の壁や天井、卒業生の美術作品などが焼けた。出火当時の教室は無人で、火の気もなかったという[100]。
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関連項目
公式サイト
注釈
注釈グループ
- うち男29
- うち男15
- うち男24
- うち男39
補足
- 明石女子短期大学、明石短期大学、神戸文化短期大学含む
- 男女各19
- うち男4
- うち男66
- うち男9
- うち男31
- うち男20
- うち男15
- うち男9
- うち男21
- うち男2
- うち男25
- うち男3
- うち男5
- うち男22
- うち男11
- うち男7
- うち男12
- うち男23
- うち男17
- うち男14
出典
参考文献
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