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船場 (姫路市)
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船場(せんば)は、兵庫県姫路市の中心部西部を指す地域名。姫路城の西側にある旧町人地・中下級武士の居住区およびその周囲の田畑が宅地化された地域であり、姫路市立船場小学校の校区東部および姫路市立城西小学校の校区南部を指す。
姫路城外曲輪内の内町に対して、その外側に広がる町を外町(そとまち)と称し、船場はそのうち西側の西国街道沿いの地域である。南に隣接する地区である飾万津口(しかまづぐち)、北に隣接する野里(のざと)、東に隣接する神谷(かみや)、それらに含まれる町を合わせて姫路78町と呼ばれた[注釈 1][2]。内町・外町を総称して姫路町と称する[3]。
本項では船場に含まれないがこれらの町と隣接し特に関係が深い町についても解説する。
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歴史
要約
視点

市川支流の船場川は二股川、妹背川あるいは三和川と呼ばれていた。この両岸にまたがって福中村があり、川をはさんで東側を上福中村(のち福中町)、西側を下福中村と称した[4]。その北東・姫山周辺に中村が、後の景福寺山周辺に中村の出作村があった[5][6]。また三和川の支流として過去に雲見川という流れがあり[7](柿山伏から龍野町に至る水路がその名残か[8])、性空上人がここで紫雲が書写山に留まるのを見て圓教寺を開く場所を定めたという伝説がある[9][10]。
天正8年(1580年)、羽柴秀吉が英賀城を滅ぼした際に、その城下町の人々をこの地の西国街道沿いに集め、龍野町[注釈 2]に禁制[注釈 3]を発給して楽市と定めている[12]。
江戸時代には元和4年(1618年)、本多忠政が東本願寺の要請を受けて、東本願寺別院として船場本徳寺を開基する[13]。また本多忠政は(池田輝政が頓挫した三左衛門堀の開削に代わって)妹背川を改修して寛永元年(1624年)に完成、高瀬舟が通行出来るようにした。現在の炭屋橋[注釈 4]から材木町・小利木町にかけて船着き場を設けて市之橋の附近に市を開き、妹背川を船場川と、この附近を「船場」と称した[14]。また船場にも姫路藩の下級武士・足軽の居住区・長屋が置かれている。宝暦7年(1710年)榊原政邦の時に中村の出作村を(姫路城内に取り込まれた)本村の名を取って中村と改めている。寛延2年(1749年)[注釈 5]には船場川の大洪水(寛延二年大洪水)があり溺死者408名・流失家屋161戸を数え、船場地区にも甚大な被害を出している[14]。
江戸時代の福中村は「天保郷帳」「旧高旧領取締帳」共に441石余り[4]。中村は同様に292石余り[6]。
明治初頭には飾磨県庁が龍野町5丁目(のち姫路赤十字病院を経て空き地)におかれた[15]。明治・大正時代にも西国街道沿いの龍野町を中心に繁栄し、特に多数の会社の経営や投機をおこなった龍野町1丁目の初井家(歌人・初井しづ枝の婚家)が知られる[16]。
1889年(明治22年)4月1日に姫路に市制が施行された際には船場の各町もこれに含まれる。さらに1912年(明治45年)4月には国衙村から一部が編入され、大正年間にその地域で耕地整理がおこなわれ、1926年(大正15年)にはここに新たに船橋町ほかの町名が設定され広義の船場に含まれる。
太平洋戦争末期、1945年7月3日深夜からの第2次姫路空襲で船場も東部を中心に被災。戦後には被災区域において戦災復興都市計画による区画整理が行われ、船場川が本多忠政による改修で外曲輪南西角で大蔵前町の東へ屈曲していた[注釈 6]のを直線形に改めて旧流路を埋め立てている[注釈 7][17]。また国道2号も拡幅整備されて北沿いにビル群が建設される。1984年(昭和59年)9月21日に船場東部を含む復興第1工区が換地処分され[18][19]町名が変更・整理されている。
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含まれる町丁
要約
視点
凡例・補足:
- 町名リンク先も参照。
- 船場の分類は橋本政次『姫路市町名字考』p.12-19を元に現在の町名に対応させた。
- 江戸時代の分類は特記無き場合は町人地。
- 明治初期から市制施行まで各町名に「姫路」を冠している(それ以後に成立した町を除く)。
- 校区欄の校名は「姫路市立○○小学校/中学校/小中学校」を省略表記。
現存しない町名
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船場に含まれないが関連する町丁
ゆかりの人物
脚注
参考文献
外部リンク
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