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1894-1982, 詩人、英文学者。モダニズム・ダダイスム・シュルレアリスム運動の中心人物。また、水彩・油彩等の絵画作品を残した。 ウィキペディアから
西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年(明治27年)1月20日 - 1982年(昭和57年)6月5日)は、日本の詩人(近代詩)、英文学者、文学博士。第二次世界大戦前のモダニズム、ダダイスム、シュルレアリスム運動の中心人物。また、生涯に多くの水彩画並びに油彩等の絵画作品を残した。出生地である新潟県小千谷市の名誉市民。生前、ノーベル文学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している[1][2]。
西脇 順三郎 (にしわき じゅんざぶろう) | |
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肖像写真 | |
誕生 |
1894年1月20日 日本・新潟県北魚沼郡 |
死没 |
1982年6月5日(88歳没) 日本・新潟県小千谷市 |
墓地 |
照専寺(新潟県小千谷市) 増上寺 |
職業 | 詩人、英文学者 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 博士(文学) |
最終学歴 |
慶應義塾大学理財科 オックスフォード大学中退 |
活動期間 | 1927年 - 1982年 |
ジャンル | 詩、評論、翻訳 |
文学活動 | シュルレアリスム |
代表作 |
『Ambarvalia』(1933年) 『旅人かへらず』(1947年) 『古代文学序説』(1948年) 『第三の神話』(1956年) |
主な受賞歴 |
読売文学賞(1957年) 勲二等瑞宝章(1974年) |
デビュー作 | 『Spectrum』 |
影響を受けたもの
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影響を与えたもの
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ウィキポータル 文学 |
1922年、渡英して西欧の超現実主義的感覚を身につけた。帰国後、日本の超現実主義運動に参加して、詩集『Ambarvalia』(1933年)を刊行。ほかに『旅人かへらず』(1947年)、『近代の寓話』(1953年)など。
新潟県北魚沼郡小千谷町(現在の小千谷市)に小千谷銀行頭主・西脇寛蔵の二男として生まれた。西脇家は元禄時代より縮問屋を代々営んでいた。8月に日清戦争が始まった。
1900年(明治33年)に小千谷尋常高等小学校に入学し、姉からナショナル・リーダーズ(英語の読本)を習う。この間、日露戦争が始まる。1906年(明治39年)に新潟県立小千谷中学校に入学し、文学よりももっぱら絵画を好み、自然の「入神」の境地を味わい、卒業旅行は佐渡へ出た。小千谷中学卒業と共に図画教師に勧められて画家を志望する。白滝幾之助や藤島武二らに相談した末、黒田清輝主宰の「白馬会」に入会するが、画学生の気風になじめず、父の急死により画家の道を断つ。
1912年(大正元年)に兄・修太郎の在籍する慶應義塾大学理財科予科に入学。英書を読み漁り、フランス象徴派詩人の知識を得る。特にアーサー・シモンズの『散文と詩の研究』によってウォルター・ペイターに開眼する。第一次世界大戦が始まり、1917年(大正6年)に卒業論文を全文ラテン語で執筆し、小泉信三教授に提出して慶應義塾大学理財科(現在の経済学部)を卒業。4月に『ジャパンタイムズ』社に入社するが、経営陣交替に伴い退社。翌年3月、日本銀行への入行が内定していたが、健康を損ない、郷里の小千谷に帰り自宅で静養を続ける。
1919年(大正8年)6月、ジャパンタイムズ時代の高橋一知の招聘で、外務省条約局に嘱託として入局。翌年の4月に田中萃一郎の推薦で慶應義塾大学予科教授となり、野口米次郎、戸川秋骨、馬場孤蝶らを知る。翌年に『英語文学』に「THE POMEGRANATE」「SONNET OF SUMMER」のソネットを発表。1922年(大正11年)にギュスターヴ・フローベールを愛読し、『三つの物語』一篇に基づく長い英詩「ST.JULIAN THE PARRICIDE」を『三田文学』に発表。
1922年(大正11年)に神戸港より北野丸で英国に出帆。同船した徳田敬二郎を通じて従弟の郡虎彦と到着した英都ロンドンで交わる。オックスフォード大学の入学手続きに間に合わず、一年間はロンドンでジョン・コリアー、シェラード・ヴァインズらとの交友の結果、モダニズム文学運動に接する。1923年(大正12年)1月より住居をケンジントン地区のホテル・ローランドに定め、7月にスコットランドを旅行。10月にオックスフォード大学ニュー・カレッジ(New College)英文学Honors courseに入学。フランス、スイスに旅行し、1924年(大正13年)の夏学期に、ラテン語で大学のニューディゲイト賞に応募しようとしたが、時間不足のため英詩に転換。後に『Ambarvalia』に「哀歌」として名残りのラテン詩が載った。
「A KENSINGTON IDYLL」がT・S・エリオットの詩と共に『チャップブック (Chap Book)』39号に掲載され、この年に英詩を乱作し、12月にフランスで『シュルレアリスム革命』誌が刊行される。同年、英国の女性画家マージョリ・ビドルと結婚。1925年(大正14年)にオックスフォード大学を中退し、ロンドンで英文詩集『Spectrum』をケイム・プレス社より自費出版。これが『デイリー・ニューズ』紙と『タイムズ』紙文芸附録の書評に取り上げられ、一躍文名をあげた。帰国の途中にフランスの首都パリで仏文詩集『Une Montre Sentimentale』を出そうとしたが果たせなかった。
1926年(大正15年)、慶應義塾大学文学部教授に就任して英文学史などを担当。『三田文学』を中心に「PARADIS PERDU」を仏文で発表するなど批評活動を開始し、講義の後には佐藤朔、上田敏雄、上田保、三浦孝之助などの学生がしばしば自宅に押しかけて深夜まで芸術論を交わすようになる。1927年(昭和2年)に瀧口修造を介して雑誌『山繭』の同人となり、石丸重治、堀辰雄を知り、仏詩「メーラ」を寄稿。12月に日本初のシュルレアリスム詩誌『馥郁タル火夫ヨ』を刊行。翌年、春山行夫らの創刊した季刊誌『詩と詩論』に参加、更に『超現実主義詩論』を刊行した。
1930年(昭和5年)に『シュルレアリスム文學論』、英文詩集『Poems Barbarous』を出して同時期にジョン・コリアが『His Monkey Wife』を出版。 妻と離婚後、1932年(昭和7年)に桑山冴子と結婚。1933年(昭和8年)百田宗治編の『尺牘』創刊号に「ギリシア的抒情詩」四篇を発表。これが注目を浴び、詩集『Ambarvalia(アムバルワリア)』で詩壇の萩原朔太郎、室生犀星の称賛を受け、詩誌『詩法』の創刊に参画し、詩論を発表する。1935年(昭和10年)に『曲水』を脱退した西村月杖らが新興俳句運動に参加し、俳句と詩の統合を指標とした俳誌『句帖』が主宰されると、俳句会に室生犀星、萩原朔太郎、百田宗治の4名で月交代で選者を務める。
しかし、1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発したので詩作の発表をやめ、学術研究に没頭した。東洋の古典を読み漁り、『古代文学序説』の執筆に集中。翌年に国家総動員法成立に伴って、シュルレアリスムが弾圧を受け、西脇の影響を受けた詩人たちが所属する「神戸詩人クラブ」に属する詩人14名が検挙される「神戸詩人事件」が起こった。太平洋戦争の勃発(1941年)後は蔵書三千冊を千葉県に移動保管させ、1944年から1945年にかけて、家族と共に郷里の小千谷市へ疎開し、小千谷の北にある長岡市が大空襲を受けるのを目撃した。小千谷での疎開中、戦時中の物品欠乏から東山と号して水墨画を描くに至る。
1947年(昭和22年)に発表された第二詩集『旅人かへらず』とこれに続く詩集『近代の寓話』『第三の神話』では自分の内面に潜むもう一人の人間を「幻影の人」と名付け追求。西洋的教養と日本的感性を融合させた独自の詩風を築き上げる。詩誌『荒地』で西脇順三郎特集号が刊行される。1949年(昭和24年)、戦火をくぐって厨川文夫が原稿を持ち歩いて完成させた『古代文学序説』により文学博士号を受ける。なお、博士論文書誌データベースによると「古英文学研究序説」とある。 1951年(昭和26年)に村野四郎、北園克衛、安藤一郎と共に『GALA』の同人となる。
1956年(昭和31年)5月に米国シカゴの詩誌『ポエトリ』に作品がニ篇翻訳収録され、10月には岩崎良三訳の詩集にエズラ・パウンドへの献詩を寄せ、これと共に『ジャパン・クォータリ』誌に載った英詩「JANUARY IN KYOTO」を受け取ったパウンドから、「地球の反対側にこのような立派な詩人が存在することを知るのは、心温まることです」と手紙が来る[3]。翌年にも、パウンドから岩崎良三に宛てて、「どんな文学賞も審査員賞も、一個の子音の重みや母音の長さを変えうるものではありませんが…西脇順三郎の作品をスウェーデン・アカデミーに推すことはなんの害もないでしょう」との手紙が来る[4]。
詩集『第三の神話』で読売文学賞を受賞。現代詩人会幹事長を経てのちに会長。季刊雑誌『無限』を創刊し、1961年(昭和36年)に日本芸術院会員。翌年に慶應義塾大学で「ヨーロッパ現代文学の背景と日本」と題して最終講義を行い、定年退任。6月にアリタリア航空とイタリア中近東研究所の招きでイタリア各地を旅行し、詩人のジュゼッペ・ウンガレッティと会談し、帰国後に漢語とギリシャ語の比較研究を始める。1967年(昭和42年)9月にカナダのモントリオールで開かれた世界詩人会議に招かれ、「詩と人類の世界」について英語で講演し、ロバート・ロウエル(Robert Lowell)と会談。
1958年から1967年までの間に9度にわたってノーベル文学賞候補に推薦されていたことがのちに明らかになっている(後述)。
1971年(昭和46年)に文化功労者。1973年(昭和48年)にアメリカ芸術科学アカデミー(The American Academy of Arts and Sciences=AAAS)の外国人名誉会員に選ばれる。1974年(昭和49年)に勲二等瑞宝章。1977年(昭和52年)に神奈川県川崎市の影向寺に詩碑が建ち、翌年に小千谷市の照専寺に詩碑が建立された。小千谷市立図書館内に「西脇文庫」を開設(後に「西脇順三郎記念室」[5])。
1958年には谷崎潤一郎とともにノーベル文学賞の候補者(候補41人中)になった[9]。その後、1960年から1968年までの間も毎年候補になったことが明らかになっている[10][11][12][13]。推薦者は、インド文学研究者の辻直四郎が7回(1958年・1960年・1962年・1964年・1965年・1966年・1967年)、日本文藝家協会(1961年)と日本学士院(1963年)が各1回である[14][15][16]。
選考資料に残る委員のコメントでは、1958年・1960年は「翻訳作品や評価のための資料が少ない」ことが記され、1961年にはそれらに加えて「もし現在の資料の中から彼ら(引用者注:西脇と谷崎)の作品を評価するとすれば、今のところ賞に値するとは言えない」とされていたが、1962年には「このノーベルアカデミーの水準に達しているとは思えない」と翻訳や資料不足の指摘なく低評価を下され、1963年には「ドナルド・キーン教授からの意見に従い、西脇をこれ以上推薦しないことにした」とあり、選考側が日本人文学者について参考としていたキーンが西脇を評価していなかったことが明らかになっている[1]。
西脇家は江戸時代に縮仲買業で財を成し、貸金、土地投資により小千谷有数の豪商・大地主となった[18]。順三郎と同じく小千谷市の名誉市民である西脇済三郎も親族である。一族の主な人物に以下がある。
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