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日本の海軍軍人、実業家 ウィキペディアから
堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日 - 1959年〈昭和34年〉5月12日)は、日本の海軍軍人、実業家。
海軍軍人としての最終階級は海軍中将。実業家としては、日本飛行機 社長、浦賀船渠(現:住友重機械工業)社長を歴任した。海軍の現役を退いた後の1941年(昭和16年)に、法制局長官(現:内閣法制局長官)に擬されたが、辞退した。
天下の秀才を集める[4]海軍兵学校の同期生たちをして「神様の傑作の一つ堀の頭脳」 [5] と畏敬せしめる程の、桁外れの英才であった。
からの信頼が厚く、山本権兵衛(兵2期)・加藤友三郎(兵7期)の系譜を継ぐ人物として、いずれ海軍大臣に就任することが確実視されていた。
秦郁彦は、下記のように述べている。
しかし、ロンドン海軍軍縮会議後に条約派と看做されて艦隊派から激しい攻撃を受け、大角人事により51歳の若さで予備役に編入され、その才幹を十分に発揮することなく軍歴を閉じた。
東條内閣の海相・嶋田繁太郎(兵32期同期生)は、下記のように述べている。
筒井清忠は、堀を下記のように評する。
1883年(明治16年)8月16日、大分県速見郡八坂村生桑(現・大分県杵築市)の矢野弥三郎(農業)の次男として生まれる[10]。母はタマ(大分県速見郡日出町〈現〉の士族の娘)[10]。父の矢野弥三郎は、農業以外に醤油醸造などの事業を手掛け、村の助役などの公職に就き、私塾を開いて村の子供たちに学問を教え、漢詩を作るのが趣味であるなど、有能・多才な人物、かつ人格者として知られ、家計には余裕があった[15]。
悌吉は10歳の時に堀正次[注釈 1]の養子となり、堀家の戸主となった[10][17]。ただし、義父の堀正次は、悌吉との養子縁組の前に死去しており、かつ堀家には家族がなく、堀家を絶やさないための名義だけの養子であり、引き続き「矢野弥三郎の息子」として生活した[15]。
デフォー『ロビンソン・クルーソー』を読んだこと[5]、あるいは日清戦争の勃発(明治27年)[10] がきっかけで、海軍士官を志した。杵築中学校(現:大分県立杵築高等学校)から海軍兵学校に入校(兵32期)。杵築中学校の校長や、父の矢野弥三郎は堀の兵学校受験に反対した[5]。父は、学費の心配は要らないから他の学校に行け、と堀に言ったという[5]。
兵32期の同期生には、山本五十六、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾らがいる。山本五十六とは、肝胆相照らす盟友の間柄であった[5][18]。
兵学校の席次は、明治34年の入校時には3番/190名、明治37年の卒業時には首席/192名であった[19]。塩沢幸一(兵32期次席)と常に首席を競い、入校時と1年次は塩沢に首席を譲ったが、その後は首席(クラスヘッド)を通した[5][20]。兵学校卒業成績は、堀が5618点/6000点(93.6%)、塩沢が5611点/6000点(93.5%)の鍔迫り合いであった[21][注釈 2]。
戦艦「三笠」乗組の海軍少尉候補生として、1905年(明治38年)5月27日の日本海海戦に参戦した[12][13]。「三笠」艦上から、次々に沈んで行くロシア海軍艦艇の惨状を目の当たりにしたことは堀に大きな影響を与え[12][13]、堀の戦争観の基本となった[24]。
1913年(大正2年)2月から1916年(大正5年)7月までの3年5か月間、フランスに駐在して、第一次世界大戦を間近に見た[25]。
フランスから帰国し、1916年(大正5年)12月から1918年(大正7年)12月まで海軍大学校甲種学生(16期)となって次席で卒業した堀は、海大甲種学生在校中に独自の戦争観を表明した[25]。
堀の戦争観を、筒井清忠は下記のように要約する。
堀は下記のように記している。
凡そ軍備は平和を保証するに過不足なき如く整備すべきである。……小に失すれば無軍備よりも却って危険な事があり大に失すれば……野心の徒輩が、使用の方策を誤り不法無謀の事に之を濫用したがるのおそれがある。 — 堀悌吉、『大分県先哲叢書 堀悌吉資料集(第2巻 193-194頁)』、[25]
学生であった時……自分は「世界平等文明」という様な言葉を使った事が、大学校教官の中の或る人々の間に於て物議をかもし、殊に……戦争の罪悪説を主張し、之を固持するに及び、堀は世界主義者だとか、社会主義者又は共産主義者(当時是等の言葉は同一の意味に用いられて居た)だとか言われ、果ては思想の健全性をまで疑わんとするものがあった。 — 堀悌吉、『大分県先哲叢書 堀悌吉資料集(第2巻 199頁)』、[25]
海軍部内では、かかる考えを明らかにした堀を「危険思想の持ち主」と警戒する者が少なくなかった[25]。
海大甲種学生卒業後の1918年(大正7年)12月に海軍省軍務局第1課局員となった堀について、堀の上司である山梨勝之進(兵25期。大正7年12月-大正10年8月 海軍省軍務局第1課長[28])は、部下であり、かつ以前から堀に兄事していた古賀峯一(兵34期。大正7年3月-大正9年7月 海軍省軍務局第1課局員[29])と下記の問答を交わした[30]。
筒井清忠は下記のように評する。
1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮会議では随員を務め、全権・加藤友三郎を補佐した。
堀は、対策案決定会議において、単に「軍艦の保有トン数」のみではなく、個艦の性能や艦齢まで考慮した軍縮案を提示すべき、と主張したが、この主張に賛成したのは山梨勝之進のみであり、不採用となった[30]。この件について後年の堀は「二十五年を経た今も一大痛恨事」と記した[30]。
「国防は軍人の専有物にあらず」という加藤友三郎の言葉を筆記したのが堀である[34]。
1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議において、補助艦の比率は米英に対し7割は必要という艦隊派の意見が海軍部内では根強かった。海軍省軍務局長であった堀は、英米に対しては不戦が望ましいという意見を持ち、会議を成立させるべきという立場で海軍次官の山梨勝之進を補佐した(条約派)。結局は米国と日本の妥協が成立し、日本は対米比6割9分7厘5毛でロンドン海軍軍縮条約に調印した。
ロンドン海軍軍縮会議妥結に向けての堀の尽力について、筒井清忠は下記のように記す。
しかし艦隊派が台頭する海軍内で堀の立場は弱くなり、海軍中央から遠ざけられることになった。1931年(昭和6年)12月に海軍省軍務局長から第3戦隊司令官に転じた堀は、1932年(昭和7年)1月に生起した第一次上海事変に参戦したが、堀は第3戦隊司令官としての行動を末次信正(兵27期)ら艦隊派から強く批判された[37]。
艦隊派の神輿であった皇族軍人の伏見宮博恭王(兵18期相当、昭和7年2月に海軍軍令部長、同年5月に元帥)は下記のように述べた。
1932年(昭和7年)12月に第1戦隊司令官[注釈 3]に転じた堀は、1933年(昭和8年)11月に海軍中将に進級すると同時に軍令部出仕(無役[8])となった。
昭和7年から昭和9年にかけての、艦隊派による堀への批判、事実無根の誹謗中傷・人格攻撃は、堀の妻である千代子が、1934年(昭和9年)に神経衰弱症で入院を余儀なくされるほど激しいものであった[8][38]。
艦隊派が堀を激しく攻撃して予備役に追いやった理由について、太田久元(2022年現在、立教大学/立教学院史資料センター助教[39])は下記のように述べている。
堀が予備役に編入された最大の原因は、堀が現役将官として存在した場合、海相になる可能性が非常に高かったためであった。そして、海相に就任すれば、人事権を行使し、「軍政系」「政軍協調系」が復権し、つまり、それは「軍令系」や「純軍事系」の権限縮小に直結する可能性があったためであった。 — 太田久元、[40]
追い詰められた堀は、1934年(昭和9年)12月15日、艦隊派が主導したいわゆる大角人事により予備役に追われた。この時、堀は51歳であった。
昭和7年から昭和9年までの上記の流れの中で、
らは、連携して兵32期クラスヘッドである堀の失脚に強く抵抗したが、力及ばなかった[8]。
この時、山本五十六は下記のように嘆いた。
堀の失脚について、渡辺滋(2021年現在、山口県立大学国際文化学部准教授〈日本史研究室〉[48])は、下記の趣旨を述べている[8]。
1936年(昭和11年)1月、日本政府は堀が尽力したロンドン海軍軍縮条約からの脱退を通告する。日本は太平洋戦争の一因にもなった無制限軍備拡張の時代に突入した。
同じく昭和11年、予備役編入から2年を経た堀は、日本飛行機株式会社(昭和9年〈1934年〉に設立されたばかりの会社で、経営は未だ安定していなかった[50])の社長に就任した[51]。1941年(昭和16年)、閣僚の一人である法制局長官に推挙される機会があったが辞退した(「#法制局長官への推挙」を参照)。同じく昭和16年、日本飛行機株式会社の社長を辞して、浦賀船渠株式会社(現:住友重機械工業株式会社)[52] の社長に就任した[16]。海軍から実業界に転身した堀は精力的に経営に当たり、日本飛行機、浦賀船渠、両社の業績を向上させた[53]。
堀は、下記のように率直な思いを記している。
昭和十一年十一月に、日本飛行機株式会社の社長に就任してからは、物質上の生活は暫次〔ママ〕に改善せられ、昭和十六年十二月に「浦賀船渠」に転じたが、其の頃になると、海軍現役在職中の身であったならば期する事の出来ない様な生計を維持する事が出来て居た。児女の養育、結婚支度や、相続く病人の療養手当、其の後の事等、身分相当以上につくす事が出来たのは予備役になって居たおかげだとも云ひ得やう。
戦後となって昔同僚であった人々が戦争犯罪容疑者となったり、敗戦の直接責任者として彼れ是れ云はれたりして居るが、自分は今日、是等の人々に比較して、心安らかに無憂の境涯に住する事が出来て居ると思ふ。この点は多くの人から慰安的な同情の言葉を受けて居る所である。 — 堀悌吉『感想記』(昭和二十五年一月稿)より、[54]
「大角人事による予備役編入」という災いを、自らや家族にとっては、却って福に転じることが出来た堀であるが、その代償として、日本が亡国に向けて突き進むのを傍観者として見守るしかなかった。
堀は、下記のように回顧している。
自分は自分の力を過信したり、誇大妄想気味の言辞を弄して以て快とするが如き者では毛頭ないが、唯、一旦海軍に身を置いた以上、海軍の真の使命と信ずる諸点に向って微力を捧げたいものだと念願して居た。
そこで考への方向を同じうして居ると信じた山梨、山本、古賀、榎本の先輩、同僚を同志と思ひ、自分の考へる事は何一つ隠す事なく打ち明け話し合って居た。自分は現役を去って予備役に入ったとしても、此の点については何等の影響も受けない筈であり、私生活の事等、却て親密度を増加した点もあった位であるが、何だか精神的には自分の過去と新境遇との間に一条の境界が出来た様に思はれて所信を語り合ふにしても、最新の情報に遠ざかっている自分は、万事控へ目勝ちとなり、又当局の人々に対して直言するにしても、何となく遠慮が出て来て、昔日の様なわけに行かぬ様になった。加之、自分が入った実業部門は海軍の指定工業に従事するものであったので、軍当局のする事に対し、批判に亘る積極的の行動は差ひかへねばならない場合が多くなる様に感ずるに至った。 — 堀悌吉『感想記』(昭和二十五年一月稿)より、[54]
三国同盟反対でも、破局突入の阻止の場合でも、山本、古賀両氏が中央を去って居ては、唯纔に[注釈 4]榎本氏から諸般の状勢〔ママ〕を聞き、又氏に対して片言隻語を申入れ、悶々の情を訴ふるに過ぎなかったのであるが、それも多くの場合、時期既に去って大勢決定せる後の事が多く、周囲の情況〔ママ〕上已むを得なかったとは云へ、今日から遡って当時を追憶し『若しあの時、自分が尚、責任を頒ち得る立場に居たとしたならば、或は身命の危険に曝される様な場合があったかもしれないが、三国同盟反対でも、時局収拾に関してでも、何かもつとしっかりした貢献が出来たのではなかろうか。たとへ天下の大勢既に決し、如何ともする事が出来なかった事由があったとするも、何等かの形に於て、何等かの方向に自分の力を致すことが出来なかったものであらうか』との様な考が浮ぶのを禁ずることが出来ない。是等の点は悔恨の念が永久に消え去らずに、何所にか心の奥底に潜む所以である。
「あなたは早く海軍をやめて置いてよかったな」と云はれる時、それが全く善意の慰安の言葉である事は分かり切って居ても、吾が心の奥に潜在する過去の恨が蘇へり動き出して、「それはそうだとも」と自分が合槌を打って謝辞を述ぶる時に、自ら自己を詐って〔ママ〕居る様な気がしてならないのは、以上に述べた様な所のものが、脳裡に存在するからであらう。併し之は過去に対する未練でもなく、又勿論現在に対する自己満足でもない。唯過ぎ去った時代に対する淡い思ひ出の副産物にすぎないとも云へよう。 — 堀悌吉『感想記』(昭和二十五年一月稿)より、[54]
敗戦後の1945年(昭和20年)の11月に、浦賀船渠株式会社の社長を自ら辞任した[55]。1947年(昭和22年)に公職追放指定を受けた[56]。数社の役員、顧問等となった[56]。公職追放指定は1952年(昭和27年)に解除された[56]。
自適生活に入った堀は、1952年(昭和27年)2月1日付で交詢社の社員に迎えられ[57]、交詢社(銀座)での定例午餐会(毎週の金曜日)に欠かさず出席し、各界名士との旧交を温めた[58][59]。
堀の主治医であった工藤貞雄[注釈 5]によると、離現役(昭和9年〈1934年〉)後の堀の健康状態は概ね良好であった[64]。
堀の女婿(二女の夫)である渡辺佳英(大正4年生、東大法学部卒、商工省官僚、退官後に 東洋パルプ株式会社 社長[65])は、「健康そのものだった岳父なら卒寿(90歳)を超えるのも容易だろう、と考えていた」旨を堀の没後に述べている[66]。
しかし、昭和34年(1959年)4月24日、数か月ぶりに堀(75歳)の自宅(東京都世田谷区上馬[67])を往診がてらに訪れた工藤貞雄は、
「 | 胃に痛みを感じるので、しばらく前に銀座の癌研病院[68]で診て貰ったが、大したことはないと言われた。5月4日に再診の予約が入っている。(要約) | 」 |
と話す堀の衰弱ぶりに驚き、自ら堀を診察して「胃癌が相当に進行している」と判断した[64]。工藤は直ちに堀への内科治療を開始すると共に、癌研病院と交渉して、4月27日に癌研病院でX線撮影を含む精密検査を受ける手配をした[64]。
4月27日の精密検査の後も、癌研病院の担当医は明確な判断を避けたが、工藤の往診を受けつつ自宅療養を続ける堀の病状は急速に悪化した[64]。5月4日、堀は意識混濁に陥り、誰の目にも「末期の胃癌」と明白になった[64]。工藤は、複数の著名な医師と協議したが、既に手の施しようがなかった[64]。
堀は、海軍兵学校32期の同期生が「神様の傑作の一つ堀の頭脳」[5] と評し、海軍砲術学校普通科学生卒業時に奥宮衛・海軍砲術学校長が「ことに堀中尉のごときは満点に近き得点にして、本校創立以来、いまだかつて見ざる成績なり」[69] と評したほどの群を抜いた俊才であり、海軍兵学校(首席)・海軍砲術学校普通科学生(首席[70])・海軍大学校甲種学生(次席)の3つを恩賜で卒業した[69][注釈 6]。学業のみならず実技面でも抜群であった[5]。
海軍大学校甲種学生(16期)で堀と一緒であった洪泰夫(こう やすお) 少将[22](兵33期)は、下記の趣旨を述べている[72]。
洪は、下記のように述べている。
私は嘗てフランス人に堀さんを紹介する時に「この人はどんなに忙がしい時でも、いつでも暇な人だ」と云ったことがありますが、それは今でもその通りであったと思うのであります。 — 洪泰夫、[72]
堀の軍務局長在任中(昭和4年9月ー昭和6年11月)、海軍省副官 兼 海軍大臣秘書官(昭和5年6月-昭和6年10月[76])を務めた高木惣吉(兵43期)は、下記の趣旨を述べている[77]。
堀の軍務局長在任中(昭和4年9月ー昭和6年11月)、直属部下たる軍務局第1課長(昭和4年8月-昭和7年11月[78])を務めた沢本頼雄(兵36期)は、下記のように述べている。
堀は30代前半でフランスに3年5か月在勤した。その40年後の昭和28年(1953年)春、フランスの新鋭客船「ラ・マルセイエーズ号」(1949年竣工、17,408総トン、極東航路に就航[80])が横浜に入港した[81]。一般公開は無かったが、招待を受けた堀(70歳)は家族と共に同号を訪れ、船内を見学していた[81]。広い船内を歩き回って疲れてきた一同に対し、堀は「アイスクリームでも食べさせてもらおう」という旨を言い、通りかかったフランス人士官(船長、航海士などの高級船員)[注釈 7]に流暢なフランス語で話しかけた[81]。証言者である堀の姪にフランス語の素養は無かったが、士官の丁重な物腰から「士官が堀を『フランス老紳士』として待遇している」ことが感じ取れた[81]。堀の姪は、若き日に習得したフランス語をネイティブスピーカーレベルで操り、初対面のフランス人士官から敬意を表される堀への畏敬の念を新たにしたという[81]。
才を鼻にかけない、温厚篤実な人柄であった[82][83][84]。
「部下や友人に功を譲る」ことが多かった(鈴木義一 中将[22]〈兵32期同期生〉の証言[85]、洪泰夫 少将[22]〈兵33期〉の証言[72]、沢本頼雄 大将〈兵36期〉の証言[79])。
自らの地位や経済力(海軍中将、日本飛行機 社長、浦賀船渠 社長)を誇ることは無く、誰とでも気さくに付き合い(昭和6年に東京市世田谷区上馬に終の棲家を建てた際に意気投合した大工の棟梁と、昭和34年の死去に至るまで親交を結んだ[86])、弱き者への物心両面の援助を惜しまなかった(堀の同郷の友人〈大分県速見郡八坂村 出身〉が、堀の影日向ない支援によって人生を開くことが出来た、男子4名および女子2名について証言している[87])。
一方で、早期に海軍を退いて実業界で地位を築いていたことを活用し、昭和20年の敗戦による軍人恩給停止で生計の道を断たれた、兵32期同期生、その遺族への支援に尽力した[88][89]。
帝国海軍には「女遊び(ただし相手は玄人女性に限る[90]。素人女性を弄んだ海軍士官は馘首された[91])をしない海軍士官など、一人前ではない」という価値観があった[92]。例えば、堀の盟友である山本五十六は女性関係が華やかであった[注釈 8]。しかし、堀には2人の妻以外との女性関係は伝わっていない。
兵32期同期生の中でも、とりわけ堀との親交が深かった廣瀬彦太 大佐[93][94]は、下記のように述べている。
堀さんだって木石ではない、柔らかい面もあった。たまには高尚なつや話もした。併し清潔であった。
船乗り稼業であるからには、紅裙を交えた宴会にも、たび々々[注釈 9]列した。年老いた現在のクラス会は、地味であるが、若いときは、相当ジャン々々[注釈 9]騒ぎもやったものだ。私は、今でも悪い癖があって、諸物を監察〔ママ〕するのが好きで、観劇のような場面でも、汽車電車などの車内でも、恐らくきょろきょろしていると、見る向きもあろう。宴会に於ける堀さんの様子をも、まァ気をつけて見ていたと言えようか。
都々逸一つ口にしたのを見たこともない、それでいて、紅裙や女中は、いつも堀さんや山本さんの前に集っていた。どなたかが、きっと本書に書かれるであろうと思うが、江戸小唄、長うた、新内、歌沢、清元等にも相当くわしかった。音痴どころではない。従って彼女たちとも、話しが合う、合わせるのかも知れない。それに世間話しと来ては、お手のものであるので、よくもあゝ長く多くのくろうとを前にして、漫談がつづくものと感心して見ていた。御自分は少しもうならないが、どんなのが上手か、その批評眼というか、腕はすみに置けないものがあったようだ。 — 廣瀬彦太、[95]
昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議の妥結のため、直属の部下であった堀(当時:海軍省軍務局長・海軍少将)と共に身命を賭した[96]山梨勝之進(兵25期。当時:海軍次官・海軍中将)は、昭和34年(1959年)5月12日に堀が死去した際、告別式の弔辞において堀の頭脳と人格を下記のように称えた[82]。
同じく山梨勝之進は、堀が死去する前年の昭和33年(1958年)10月28日に堀と会食し、3時間に及んだ会食が終わる間際に下記のように言ったという(同席した河野三通士〈新聞記者、「英文毎日」主筆[97]〉の証言による)[97]。
同じく山梨勝之進は、堀が死去した2年後の昭和36年(1961年)に、海上自衛隊幹部学校での戦史講義において、ワシントン海軍軍縮会議とロンドン海軍軍縮会議について講じた際に、下記のように述べた[98]。
榎本重治(海軍書記官、高等官一等〈中将相当〉)は、下記のように述べている。
昭和五年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議には堀さんは会議には列席せず、軍務局長として枢機に参し、会議全般のことを処理されたのであります。我国の主張と英・米の主張とを調和することが極めて困難な事情があった上、国内においては政府との交渉、反対政党との対応等容易ならない苦心を要したのであります。これに加えて統帥機関から強硬な要求があり、またこの紛糾した情勢に乗じて野望を遂げようとする一派が出現する等容易ならない形勢に立ち到ったのであります。大臣は全権として会議地にあったため、責任はすべて次官以下の肩にかかって来たのであります。しかしながら、この非常事態に対処して海軍省軍政当局はその挙措をあやまらなかったのであります。それは、宏遠な先見すぐれた英知、比類のない裁決の手腕が具わっていたことと、神明の加護があったためと存じます。
かくて我国は辛うじて危機を脱し、国際的地位も保持しえたのでありますが、これがため堀さんが一部の凡庸短見のものから煙たがられ出したことは事実のようであります。 — 榎本重治、[32]
堀が海軍省軍務局第1課局員を務めていた時に同僚だった(大正9年〈1920年〉 - 大正10年〈1921年〉ごろ[注釈 10])豊田貞次郎(兵33期)は、堀の桁外れの有能さに舌を巻いた法制局(現:内閣法制局)の幹部が、堀君は法制局長官が務まる逸材だ、海軍は堀君を法制局に譲ってくれないものか、と真顔で話していた、と証言した[101]。帝国憲法下では、法制局長官は閣僚に列する高官であった。
約20年後の昭和16年(1941年)、海軍の現役を退いて実業界に転じ、日本飛行機株式会社の社長を務めていた堀は、堀の人格識見を高く評価する有力財界人の山下亀三郎から、堀君を法制局長官に推挙したい、との意向を示された[100]。20年前の法制局幹部の言葉が現実になった。しかし、実業界で生き甲斐を感じていた堀は、法制局長官への推挙を辞退した[100]。
同じ昭和16年に、堀が日本飛行機株式会社の社長から浦賀船渠株式会社(現:住友重機械工業)の社長に移った経緯は次の通り[100]。
堀が海軍省軍務局長を務めていた昭和5年(1930年)12月、兵32期クラス会が築地(東京)で開催された。その際に山本五十六は下記のように述べ、クラスメート一同が頷き、大いに盛り上がったという(当該クラス会に出席した和波豊一 中将[22][注釈 11]が、自らの日記を参照して証言した)[103][注釈 12]。
半藤一利は、下記のように評している。
堀について、田中宏巳は「数少ない欠点」を指摘している。
渡辺滋は、下記のように指摘している。
堀のGF先任参謀在任中(大正11年12月-大正12年12月)にGF通信参謀(大正11年12月-大正13年12月[105])、同じく堀の2F参謀長在任中(昭和3年12月-昭和4年9月)に2F先任参謀(昭和4年3月-昭和5年12月)を務め、戦後に至るまで堀に兄事していた牧田覚三郎(兵38期)は、下記のように述べている。
同じく堀に兄事していた井上成美(兵37期)は、堀の話し方を「禅問答」と形容した[8]。
堀の評伝を上梓した宮野澄も「普通なら2分か3分は要する会話を、身振り手振りを交えて僅か20秒ほどで済ませてしまう」堀の特徴的な話し方に言及している[83]。
29歳であった明治44年(1911年)に、川村敬子(21歳、父は川村正治〈医師。大正天皇の侍医を務めた〉)と結婚したが、敬子は腸チフスにより結婚後4か月で死去した(22歳没)[107]。
35歳であった大正7年(1918年)に、山口千代子(20歳[注釈 13]、山口與三郎〈海軍一等主計正【後の海軍主計大佐】〉の長女[110]、昭和17年〈1942年〉9月24日に結核により死去、45歳没[111])と再婚した[112]。堀の二度の結婚は、いずれも堀が兄事していた四竃孝輔(兵25期)の斡旋によるものであった[107][112]。
悌吉・千代子の夫婦は、長女・二女(大正8年生[56]、双生児[112]。)、長男(大正14年生[56])の3人の子供を儲けた[112]。
2人の娘は、共に東京府立第三高等女学校[注釈 14]を卒業し[113]、長女は三菱銀行行員・生田幸夫(大正3年生、東大経済学部卒、後に富士紡績株式会社 社長[114])に[115]、二女は商工省官僚・渡辺佳英(大正4年生、東大法学部卒、後に東洋パルプ株式会社 社長[65])にそれぞれ嫁いだ[115]。
長男は武蔵高等学校(旧制)に進んだが[116]、同校在学中の昭和18年(1943年)に母と同じく結核に罹患し[116]、昭和20年(1945年)に21歳で死去した[117]。二女も昭和18年に母・弟と同じく結核に罹患し[116]、結核治療のための大規模な外科手術を受けるなど生命の危機に何度も晒されたが、長期の療養の末に結核を克服し、昭和34年の堀の死を看取ることができた[118]。
堀は、盟友であった山本五十六が書き、山本の戦死後に開封された「述志」二通を保管していた。この二通は堀が著書で内容を公開していたが、原本自体は行方不明であった。しかし堀の孫が大分県立先哲史料館へ寄贈した堀の遺品から発見され、そのことが2008年(平成20年)12月1日に公表された[120][121]。この二通は、それぞれ1939年(昭和14年)5月31日付と1941年(昭和16年)12月8日付である[121]。
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