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山梨勝之進

日本の海軍軍人、海軍大将 ウィキペディアから

山梨勝之進
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山梨 勝之進(やまなし かつのしん、1877年明治10年〉7月26日 - 1967年昭和42年〉12月17日)は、日本海軍軍人海兵25期次席・海大5期。最終階級は海軍大将従二位勲一等

概要 山梨(やまなし) 勝之進(かつのしん), 生誕 ...

主だった軍歴を軍政部門に歩み、山本権兵衛加藤友三郎の系譜を継ぐ人物と目されていた。

秦郁彦は、下記のように評している。

そのまま日本海軍が波乱なくいけば、兵学校七期の加藤友三郎のあと、二十五期の山梨、三十二期とくるのが、海軍軍政の表看板だったと私は見ています。ロンドン条約で山梨以下がひっくり返っちゃったんです。秦郁彦[1]

いわゆる条約派の1人。また帝国海軍の77名の大将のうち、艦隊司令長官職を経験していない9名のうちの1人である。

海軍の現役を退いた後に学習院長[注釈 1]を務め、皇太子明仁親王の教育を担った。

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概要

要約
視点

海軍士官となる

宮城県宮城郡仙台出身[3]。旧仙台藩士(上士[4])山梨文之進の長男として生まれ、宮城英学校を経て海軍兵学校25期)に入校、次席で卒業して恩賜品を拝受[5][6]。海兵25期の同期生には、松岡静雄鳥巣玉樹四竈孝輔らがいる。海軍大学校甲種学生5期を卒業[7]

山本権兵衛副官などを務め、ワシントン軍縮会議では全権随員として加藤友三郎を補佐。人事局長在任中は軍縮条約を日本国内で反映させるべく尽力し、また海軍大臣財部彪鹿児島優遇人事をやめるよう進言している[8]

ロンドン軍縮会議

中将の時に海軍次官を務め(1928年(昭和3年)12月10日- 1930年(昭和5年)12月1日)、1930年1月 - 4月に開催されたロンドン海軍軍縮会議を妥結させるために奔走した。反対勢力から暗殺される危険があったが、軍務局長・堀悌吉、海軍省先任副官古賀峯一と共に、暗殺される覚悟で所信を貫いた。軍縮会議全権となった海軍大臣財部彪が不在のため、山梨が海軍省を預かり、岡田啓介(前・海軍大臣、軍事参議官)の助力を得て、艦隊派の軍令部次長・末次信正をして「山梨のごとき知恵ある人物にはかなわず」[9]と言わしめる活躍であった。

ロンドン海軍軍縮会議の際に反対派が持ち出した理論が統帥権干犯であるが、山梨の見解は下記の通り[10]

統帥権問題に対する海軍の全般的な態度は、もともと、憲法解釈は枢密院の権限であるのにかんがみ、われわれが憲法論などを言ってみたところで世間の物笑いになるだけであり、アメリカの態度、予算の問題などで頭がいっぱいで、海軍省及び軍令部において、考えたことも、言ったこともなく、興味もなければ研究したこともなかった。海上自衛隊幹部学校での講話の第三話「ワシントン・ロンドン軍縮会議」より、昭和36年11月6日・7日講話、山梨勝之進[10]

予備役へ

ロンドン海軍軍縮会議の妥結のために尽力した山梨への、伏見宮博恭王東郷平八郎を頂点とする艦隊派の反発は強く、伏見宮が「山梨はいったい、軍服を着ているのか」[11]と述べたほどであった。艦隊派から忌避された山梨は、同年10月にロンドン海軍軍縮条約が批准された後に次官を更迭され、佐世保鎮守府司令長官呉鎮守府司令長官を経て1932年(昭和7年)に海軍大将に親任されたものの、翌1933年(昭和8年)3月11日、大角人事により現役を追われた。この時、山梨は満56歳であった。

学習院長

予備役編入から6年間、千歳船橋[12][13](現:東京都世田谷区 千歳船橋駅付近[13])の自宅に閑居していた山梨であるが、昭和14年(1939年)10月、宮内大臣松平恒雄(松平は、山梨と共に大正10年〈1921年〉のワシントン海軍軍縮会議で随員を務め、山梨の人柄を良く知っていた)と、海軍大臣・米内光政の両名の推挙により、皇太子明仁親王の教育を任せられる人材として学習院長に就任した[12]。明仁親王は、翌年の昭和15年(1940年)4月に学習院初等科に入学した。

戦後

戦後は公職追放となり[14]1952年〈昭和27年〉追放解除[15])、宮城育英会五城寮舎監、水交会初代会長を務めつつ、軍人恩給の復活に尽力し、海上自衛隊の創建にあたっては吉田茂ら政財界の説得にあたった[16]

中村悌次海兵67期首席、第11代海上幕僚長)は、戦後の山梨について下記のように記している[17]

学習院をお辞めになった後は、海軍の最長老として、また仙台育英会の舎監あるいは会長として、英霊の慰霊顕彰や海軍の伝統の継承あるいは後進の育成など専ら奉仕にあたられた。東郷神社の再建や三笠の保存,水交会の設立等海軍に関係のあることは、すべて〔山梨〕先生の御尽力で出発し軌道に乗る見通しがついたところで、後輩に渡された。中村悌次、〔〕内は引用者が補完、[17]

1965年(昭和40年)にはかつて副官を務めた山本権兵衛を偲ぶ会を催した。

戦史講義

82歳の時から、中山定義杉江一三内田一臣らの帝国海軍出身の海上自衛隊首脳の依頼で、海上自衛隊幹部学校(帝国海軍の海軍大学校に相当)で戦史講義を定期的に行った。山梨は毎年の講義の準備に最低でも3か月を費やし、外国戦史についての不明点は在日外国大使館に照会するか、もしくは原書を借用して解消し、講義の前にはリハーサルを行って強調すべき箇所や話す順序を工夫した[17]

1957年(昭和32年)に第3期高級課程学生として山梨の講義を受けた中村悌次は、

山梨は時に教壇の机に置いた分厚い原書をめくり、時に教壇の上を歩き、熱弁を振るった。13時から16時までの3時間の予定が、18時過ぎにようやく終わった。高齢の山梨は椅子に座って講義するよう幹部学校長から勧められていたが、一度も椅子に座ることはなく、5時間の中で休憩を2回取っただけで教壇に立ち続けた。(要約)

という趣旨を述べている[17]

最終講義は、山梨が89歳であった1966年(昭和41年)11月、死去の前年であった[18]。初期以外は速記によって講義録が作られており、山梨の死去の翌年、1968年(昭和43年)に幹部学校の部内資料『山梨大将講話集』としてまとめられ、1981年(昭和56年)に『歴史と名将』と題されて毎日新聞社から公刊された[19]。400字詰めの原稿用紙で1,200枚の大著であった[19]

死去

89歳の1966年(昭和41年)11月3日に宮中杖を下賜され、翌年の1967年(昭和42年)12月17日に死去。90歳没。特旨により、位一級を進められて従二位に叙された。

墓所は、東京・青山墓地(第二二号一種イ八側六番)[19]

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人物像

要約
視点

人格

温厚な性格ながら粘り強さを備えた人物であり、およそ人の批判をするようなことはなかった。

山梨の子息である山梨進一・埼玉大学名誉教授によると、山梨は自己宣伝が大嫌いであり、「人間は自分のしたことなど口にすべきではない。自分のことは他人が言ってくれるのだ」と常に語っていたという[17]

ロンドン軍縮会議全権であった若槻禮次郎は、予備役編入後の山梨と会った時のことを下記のように記している[17]

私は山梨に対して、「あんたなどは、当たり前にいけば、連合艦隊の司令長官になるだろうし、海軍大臣にもなるべき人と思う。それが予備になって、今日のような境遇になろうとは、見ていて、実に堪えられん」と言った。すると山梨は、いや、私はちっとも遺憾と思っていない。軍縮のような大問題は、犠牲なしには決まりません。誰か犠牲者がなければならん。自分がその犠牲になるつもりでやったのですから、私が海軍の要職から退けられ、今日の境遇になったことは、少しも怪しむべきではありません、と言った。これを聞いて私は、今更ながら山梨の人物の立派なことを知ったのであった。若槻禮次郎、[20]

海軍の後輩である堀悌吉(山梨は兵25期、堀は兵32期)との信頼関係が厚かった。

同じく海軍の後輩である井上成美兵37期)の、山梨に対する評価は高い[21]

昭和天皇は、戦後まだ間もない頃に[注釈 2]雑誌「心」同人であった文人たちとの座談で、長與善郎から「陛下にお仕えした重臣や軍人の中で、陛下がもっとも篤く信任なさった者は誰でございますか」という趣旨を問われ、「山梨勝之進」と即答した(長與の著書より[22][22]。長與は「陛下は自分自身の性質から、こういう本当に真面目で地味な人がお好きで、共鳴を感じられるのかと思った。」[22]と記している[22]。山梨進一によると、山梨は、この話題が出るたびに恐懼し、話題を変えようと一生懸命になったという[12]

卓越した軍政家

山梨の軍政家としての手腕は海軍部内でも卓越していた[23]

山梨の海軍次官在任当時、内務大臣であった安達謙蔵は、海軍部外者の立場から

山梨は頭もよく誠実で、機を見るに敏、しかも、将来の国防問題にたいする的確な見透しを持ち、部内を統制する識見を持っていた。安達謙蔵、[23]

と評している(安達の自叙伝より)[23]

艦長としての操艦

その山梨も、艦長としての操艦はすこぶるつきの下手で、特に入港時の操艦では、そばにいる者をハラハラさせどおしであった、と富岡定俊少将(兵45期)が回想している[23]。山梨が艦長を務めたのは、戦艦香取」艦長の1回のみ(1917年〈大正6年〉12月1日から1年間)だが、この時点では「軍艦職員勤務令」で「艦長は其の出入港、狭小なる水路の通過及艦隊陣形変換等の時は必ず自ら其の艦の運用を掌るべし」と規定され[24]、艦長に入港時の操艦義務が課されていた[24]。山梨が「香取」艦長を退任した翌年、1919年(大正8年)に[24]、新たに「艦船職員服務規定」が制定され[24]駆逐艦潜水艦のような小艦艇を除き[24]、出入港など注意を要する状況においても航海長が操艦することが許された[24]

一方、山梨が「香取」艦長を務めていた時に、同艦に少尉として乗組んでいた栗原悦蔵少将(兵44期)は、「香取」艦長としての山梨の操艦について「最初は不慣れであったものの、すぐに僚艦の艦長と同等レベルまで上達した」という趣旨を述べている[17]。栗原は「初級士官時代に『香取』で山梨の薫陶を受けたのは一生の収穫であった」という趣旨を述べており、後年も、山梨と会うたびに「香取」時代の思い出話が尽きなかった[17]

語学力

海軍兵学校に入校する前に宮城英学校でアメリカ人教師の指導を受けていたこと、青年士官時代に戦艦三笠」回航委員としてイギリスに2年間駐在したことなどにより、高度な英語力を有していた[25]

その他

同じく海軍の永野修身と同様、小原國芳の良き理解者であり、小原流教育の支援者だった[26]

2013年現在、山梨の蔵書(洋書以外は、ほとんどが漢籍)は、山梨が最晩年に戦史講義を行った海上自衛隊幹部学校(東京都目黒区)の図書館に「山梨文庫」として所蔵されている[19]。2018年現在、同じく海上自衛隊幹部学校には「山梨大将像」(ブロンズ胸像、制作:山名常人)が所蔵されている[27]

2013年現在、仙台・中島丁(現・仙台市青葉区八幡)の山梨家跡地(2,500坪)は、2/3が宮城県宮城第一高等学校の、1/3が尚絅学院の敷地となっており、宮城一高の構内には、山梨の漢詩を刻んだ「山梨勝之進先生生家跡」の碑が現存する[28]

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年譜

栄典

位階
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家族親族

系譜

  • 山梨氏
              杉田湛誓
               ┃
               ┃
               ┣━━石橋湛山
               ┃    ┃
       石橋藤左衛門━━きん   ┣━━━石橋湛一━━━久美子
                    ┃           ┃
             岩井尊記━━うめ           ┃
                                ┃
                  足立正━━━足立龍雄    ┃
                          ┃   ┏足立正晃
                          ┣━━━┫
                          ┃   ┗啓子
                 山梨勝之進━━━泰子    ┃
                               ┃
                               ┃
                 伊藤忠兵衛━━伊藤恭一   ┃
                         ┃     ┃
                         ┃    ┏伊藤勲
                         ┣━━━━┫
                         ┃    ┗武子
                         ┃     ┃
                 本郷房太郎━━━周子    ┃
                               ┃
                               ┃
                       ┏河野謙三   ┣━━━河野太郎
                 河野治平━━┫       ┃
                       ┗河野一郎   ┃
                          ┃    ┃
                          ┣━━━河野洋平
                          ┃
                        ┏照子
                 田川平三郎━━┫
                        ┗田川誠治━田川誠一
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主要著述物

  • 『歴史と名将:戦史に見るリーダーシップの条件』毎日新聞社、1981年。
    • (再刊)『戦史に見るリーダーシップの条件』《上・下巻》毎日新聞社〈ミューブックス(新書版)〉、1987年。
    • (再刊)『歴史と名将:海上自衛隊幹部学校講話集』(解説:戸髙一成KADOKAWA角川新書〉、2023年。ISBN 9784040824505
  • 山梨会長挨拶発起趣意書(機関誌水交) 昭和27年・第1号
  • 防衛大学校第七期生卒業式における祝辞(機関誌水交) 昭和38年・第125号
  • 山本伯を偲ぶ(1-4)(機関誌水交) 昭和39年・第131-134号
  • 大正十年天皇陛下皇太子としての御渡欧に就いて回想(1-2)(機関誌水交) 昭和40年・第142-143号
  • 加藤元帥の片鱗(1-2)(機関誌水交) 昭和42年・第167-168号

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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