Loading AI tools
日本の陸軍軍人、政治家 ウィキペディアから
大島 健一[2](おおしま けんいち、1858年6月19日(安政5年5月9日)[3] - 1947年(昭和22年)3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、貴族院勅選議員、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
1858年、美濃国岩村藩(現岐阜県恵那市、旧恵那郡岩村町)生まれ。岩村藩士・大島桂之進の次男[3][4][注 1]。兄は3歳の時に病死したので、健一は一人息子として育つ[4]。10歳の春を迎えると同時に文武所に入所する[4]。文武所は1871年、廃藩置県と共に廃止され、知新館と改称されたので健一もここへ移った[4]。
明治初年に岩村を離れる[5]。奥三河・稲武の豪農・篤志家古橋家にて初期教育を受ける。陸軍士官学校に入学[5]。
1881年(明治14年)、陸軍士官学校(旧4期)卒業。砲兵少尉に任官する[5]。1890年(明治23年)、ドイツに留学[5]。1893年(明治26年)、同年末に帰朝し砲工学校の教官となる[5]。
1894年(明治27年)、日清戦争が勃発すると第1軍の副官として各地の戦斗に参加する[5]。同年砲兵少佐に任ぜられる[5]。
1902年(明治35年)2月22日~9月4日、参謀本部部員[7][8]。参謀本部第4部長事務取扱[7][8]。9月4日~12月19日、参謀本部第4部長心得[8][9]。12月19日~1907年(明治40年)11月13日、陸軍砲兵大佐[9][10]。参謀本部第4部長[9][10]。
1904年(明治37年)、日露戦争。大本営勤務。この後は参謀本部勤務となる。1907年(明治40年)11月13日~1913年(大正2年)8月22日、陸軍少将[10][11]。11月13日~1908年(明治41年)12月21日、参謀本部附[10][12]。
1908年(明治41年)1月22日~12月21日、参謀本部第4部長事務取扱[12][13]。12月21日~1912年(明治45年)4月26日、参謀本部総務部長[12][14]。12月21日~1909年(明治42年)12月10日、参謀本部第4部長[12][15]。
1912年(明治45年・大正元年)4月26日~1914年(大正3年)4月17日、参謀次長[14][16]。1913年(大正2年) 8月22日~1947年(昭和22年)3月24日、陸軍中将[11]。 1914年(大正3年)4月17日~1916年(大正5年)3月30日、陸軍次官[16][17]。
1916年(大正5年)3月30日~10月9日、第2次大隈内閣陸軍大臣[17]。 10月9日~1918年(大正7年)9月29日、寺内内閣陸軍大臣。
1919年(大正8年)、予備役に編入。1920年(大正9年)6月2日、貴族院勅選議員[18]1926年(大正15年)、大東文化学院総長(第3代)に就任。1940年(昭和15年)、枢密顧問官。1946年(昭和21年)まで務める。1946年(昭和21年)、公職追放となる[19]。墓所は多磨霊園と恵那市東光院。
第一次世界大戦でドイツ帝国が敗戦した際、大島は第2次大隈内閣から留任した陸軍大臣として、板東俘虜収容所(徳島県鳴門市大麻町桧、旧板野郡板東町)、松山俘虜収容所などを開設し、青島膠州湾租借地のドイツ兵を収容した[20]。板東俘虜収容所ではルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番が、俘虜のパウル・エンゲルやヘルマン・ハンゼンらにより、日本で初めて全曲演奏された。
ただし1918年1月8日から検討が開始されたパリ講和会議とヴェルサイユ条約締結手続のなかで、日本政府は膠州湾海底ケーブル所有権を含めドイツ帝国の山東権益の無条件譲渡を主張して山東問題に直面し、中国及びアメリカ合衆国からの非難を浴びた。内閣はシベリア出兵付随の米騒動や、河内事故などの影響で9月29日に内閣総辞職し、大島は予備役編入となった。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.