広隆寺
京都市右京区にある寺院 ウィキペディアから
京都市右京区にある寺院 ウィキペディアから
広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦蜂岡町にある真言宗系単立の寺院。山号は蜂岡山。本尊は聖徳太子。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)[1]、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる[2]。渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は京都三大奇祭として知られるが、現在は不定期開催となっている。
広隆寺は東映太秦映画村で有名な太秦に所在するが、創建当初からこの地にあったものかどうかは未詳で、7世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され(後述のように北野廃寺跡に比定されている)、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰と共に聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂にあたる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一つとして挙げている。
『日本書紀』等に広隆寺草創に関わる記述があり、秦河勝が建立した秦氏の氏寺であることは確かだが、弘仁9年(818年)の火災で古記録を失ったこともあり、明確にされていない点も多い。
秦河勝の祖となる秦氏は、秦(中国)から帰化した漢民族系の人々といわれ、葛野郡(現・京都市右京区南部・西京区あたり)を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。広隆寺の近くにある木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)や、右京区梅津の梅宮大社、西京区嵐山の松尾大社(ともに酒造の神)も秦氏関係の神社といわれている。なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、明治時代の神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。
『日本書紀』によれば、推古天皇11年(603年)に聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝がこの仏像を譲り受けて「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。『日本書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。
蜂岡寺の創建当初の所在地について、『承和縁起』には当初「九条河原里と荒見社里」にあったものが「五条荒蒔里」に移ったとある。確証はないが、7世紀前半の遺物を出土する京都市北区北野上白梅町(かみはくばいちょう)の北野廃寺跡が広隆寺(蜂岡寺)の旧地であり、平安京遷都と同時期に現在地の太秦へ移転(ないし2寺が合併)したとする説が有力である。
一方、『聖徳太子伝暦』には太子の楓野別宮(かえでのべつぐう)を寺にしたとする別伝を載せる。推古天皇12年(604年)、聖徳太子はある夜の夢に楓の林に囲まれた霊地を見た。そこには大きな桂の枯木があり、そこに五百の羅漢が集まって読経していたという。太子が秦河勝にこのことを語ったところ、河勝はその霊地は自分の所領の葛野(かどの)であるという。河勝の案内で太子が葛野へ行ってみると、夢に見たような桂の枯木があり、そこに無数の蜂が集まって、その立てる音が太子の耳には尊い説法と聞こえた。太子はここに楓野別宮を営み、河勝に命じて一寺を建てさせたという。この説話は寺内の桂宮院(けいきゅういん、後述)の由来と関連して取り上げられる。
なお、広隆寺(蜂岡寺)が平安京遷都の際に移転した理由として、朝廷が寺院の施設を官寺として接収したからとする説もある。平安時代の国史に登場する常住寺[3][4]もしくは野寺[5][6]と呼ばれる官寺について、遷都直後に平安京内にあった唯一の既存の寺院である蜂岡寺を接収・再整備したものだと考えられている。その背景として、平安京における東寺と西寺の建立が予定よりも大幅に遅れて、朝廷が必要とする仏事に対応できなかったからだとされている。ただし、弘仁年間に東寺と西寺が整備されるとその役割は縮小していったと考えられている[7]。
広隆寺は弘仁9年(818年)の火災で全焼し、創建当時の建物は残っていない。承和3年(836年)に広隆寺別当(住職)に就任した道昌(空海の弟子)は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、広隆寺中興の祖とされている。その後、久安6年(1150年)にも火災で全焼したが、この時は比較的短期間で復興し、永万元年(1165年)に諸堂の落慶供養が行われている。現存する講堂(重要文化財)は、中世以降の改造が甚だしいとはいえ、永万元年に完成した建物の後身と考えられている。
寺には貞観15年(873年)成立の『広隆寺縁起資財帳』(国宝)と、寛平2年(890年)頃の『広隆寺資財交替実録帳』(国宝)が伝わり、9世紀における広隆寺の堂宇や仏像、土地財産等の実態を知る手がかりとなる。『実録帳』は、『資財帳』の記載事項を十数年後に点検し、異動を記したものである。『資財帳』は巻頭の数十行が欠失しているが、『実録帳』の記載によってその欠落部分を補うことができる。
江戸時代に入ると、寛文3年(1663年)の霊元天皇の即位をきっかけに後水尾法皇によって制度化された「七大寺」の1つに加えられ、国家的な祈祷の一翼を担うことになった[8]。
1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災では京都市でも震度5の強い揺れを観測した。この震災では兵庫県の神戸・阪神地域や淡路島の被害が最も大きかったことで、大阪府や京都府などの他の近畿の各県はそれほど注目されなかったが、広隆寺でも像が折れるなどの被害を受けた。
広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。宝冠弥勒像は日本の古代の仏像としては他に例のないアカマツ材である。一方の宝髻弥勒像は飛鳥時代の木彫像で一般に使われるクスノキ材。
前述のとおり、『日本書紀』に推古天皇11年(603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されているが、『日本書紀』には「尊仏像」とあるのみで「弥勒」とは記されておらず、この「尊仏像」が上記2体の弥勒菩薩像のいずれかに当たるという確証はない。
この他、後の記録であるが、『広隆寺来由記』(明応8年・1499年成立)には推古天皇24年(616年)、坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、当寺に納められたという記録がある。また、『日本書紀』には、推古天皇31年(623年、岩崎本では推古天皇30年とする)、新羅と任那の使いが来日し、請来した仏像を葛野秦寺(かどののはたでら)に安置したという記事があり、これらの仏像が上記2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説がある[9]。尚、広隆寺の本尊は平安遷都前後を境に弥勒菩薩から薬師如来に代わっており、縁起によれば延暦16年(797年)、山城国乙訓郡(おとくにのこおり)から向日明神(むこうみょうじん)由来の「霊験薬師仏壇像」を迎えて本尊としたという。現在、寺にある薬師如来立像(重要文化財、秘仏)は、弘仁9年(818年)の火災後の再興像と推定される。通常の薬師如来像とは異なり、吉祥天の姿に表された異形像である。
国宝。広隆寺に2体ある弥勒菩薩半跏像のうち「宝冠弥勒」と通称される像で、新霊宝殿の中央に安置されている。
像高は123.3センチメートル(左足含む)、坐高は84.2センチメートル。アカマツ材の一木造で右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。像表面は現状ではほとんど素地を現すが、元来は金箔でおおわれていたことが下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。右手の人差し指と小指、両足先などは後補で、面部にも補修の手が入っている[10]。
制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説が有力である。日本で制作されたとする仮説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする仮説があるが定かではない。朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される推古天皇31年(623年)、新羅に請来した仏像がこの像に当たると考察される。
『広隆寺資財交替実録帳』の金堂の項をみると、安置されている仏像の中に2体の「金色弥勒菩薩像」があり、1体には「所謂太子本願御形」、もう1体には「在薬師仏殿之内」との注記がある。「太子本願御形」の像が宝冠弥勒であり、「在薬師仏殿之内」(金堂本尊薬師如来像の厨子内にある)の像がもう1体の宝髻弥勒にあたると考えられている。
篠原正瑛によれば、ドイツの哲学者カール・ヤスパースがこの像を「人間実存の最高の姿」を表したものと激賞した[11]。
戦後まもなくの1945年(昭和20年)11月、新100円札の意匠に採用されたが、原図の製版を始めたわずか4日後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から「暗い顔」「われわれがいつ帰国するか、黙想にふけっているのであろう」などのクレームが入れられ、印刷に至らなかった[12]。
1960年(昭和35年)8月18日、京都大学の20歳の学生が弥勒菩薩像に触れ、像の右手薬指が折れるという事件が起こった。この事件の動機についてよくいわれるのが「弥勒菩薩像が余りに美しかったので、つい触ってしまった」というものだが、当の学生は直後の取材に対し「実物を見た時"これが本物なのか"と感じた。期待外れだった。金箔が貼ってあると聞いていたが、貼られておらず、木目が出ており、埃もたまっていた。監視人がいなかったので、いたずら心で触れてしまったが、あの時の心理は今でも説明できない」旨述べている。なお、京都地方検察庁はこの学生を文化財保護法違反の容疑で取り調べたが、起訴猶予処分としている。また、折れた指は拾い集めた断片をつないで復元されており、肉眼では折損箇所を判別することは不可能である。
本像についてしばしば「国宝第1号」として紹介されるが、本像と同じく1951年(昭和26年)6月9日付けで国宝に指定された物件は他にも多数ある。本像の「国宝第1号」とは、国宝指定時の指定書及び台帳の番号が「彫刻第1号」であるということである[13]。
切手の意匠になった。
楼門を入り、参道を進むと右手に講堂(重要文化財)、左手に薬師堂などがある。参道正面には上宮王院太子殿(本堂)があり、その手前右手に太秦殿(秦河勝を祀る)、左手(西)には書院、北側には霊宝殿がある。書院の西方には桂宮院本堂(国宝)がある。
※重要文化財の仏像のうち、虚空蔵菩薩坐像・地蔵菩薩坐像以外は霊宝殿に安置。
太秦の牛祭(うしまつり)は京の三大奇祭の一つに挙げられる。明治以前は旧暦9月12日の夜半、広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして執り行われていた。明治に入りしばらく中断していたが、広隆寺の祭りとして復興してからは新暦10月12日に行われるようになった。
『広隆寺大略縁起』によれば、三条天皇の御代、長和元年9月11日に比叡山の恵心僧都(源信)が声明念仏を行なっていたところ、仏法の守護神である摩多羅神から「この法会は末世まで絶やしてはならない」と夢のお告げがあり、恵心は翌日の12日に祭文を書き、摩多羅神の祭祀(「祭礼無双の儀式」と本文中では呼ばれる)を行った。その祭祀は、神主が牛に乗っているので「牛祭」と呼ばれるようになったという。祭文の意趣は、神明の威風によって年中の災禍を払い、天下を太平にし、君は長寿を得、民を安穏とするというものである、と説明される。
『都名所図会』によれば、毎年9月12日の夜、戊の刻に牛祭の神事があり、広隆寺の僧侶五人が五尊の形を表し、異形の面をかけ、風流の冠を着し、太刀を侃き、一人は幣を掲げて牛に乗り、四人は前後を囲み、従者は松明をふり立て、行列をなして本堂の傍から後ろに巡り、西側から祖師堂の前の檀上に登り祭文を読んだという。祭文の文法は古代のもので奇怪であったため、耳を驚かさない人はいなかったという。
夫れ以れば、性を乾坤の気にうけ、徳を陰陽の間に保ち、信を専にして仏に仕え、慎を致して神を敬ひ、天尊地卑の礼を知り、是非得失の科を弁ふる、これ偏へに神明の広恩なり。数に因つて単微の幣帛を捧げて、敬みて以って摩吒羅神に奉上す。豈神の恩を蒙らざるべけんや。弦に因て四番大衆等、一心の懇切を抽でて十抄の儀式を学び、万人の逸興を催すを以て自ら神明の法楽に備へ、諸衆の感嘆を成すを以て、暗に神の納受を知らんとなり。然る間に柊槌頭に木冠を戴き、銀平足に旧鼻高を絡げつけ、緘牛に荷鞍を置き、痩馬に鈴を付けて馳るもあり。踊るもあり。跳ねるもあり。偏に百鬼夜行に異ならず。如是等の振舞を以て、摩吒羅神を敬祭し奉る事、偏に天下安穏、寺家安泰のためなり。因て永く遠く拂ひ退くべきものなり。先は三面の僧坊の中に忍び入りて、物取る銭盗人め、奇怪すわいふはいやふ童ども、木木のなり物ならんとて明り障子打破る。骨なき法師頭も危くぞ覚ゆる。堵は、あだ腹、頓病、すはふき、疔瘡、ようせふ、閘風。ここには尻瘡、蟲かさ、うみかさ、あふみ瘡、冬に向かへる大あかがり、竝にひひいかひ病、鼻たり、おこり、心地具つちさはり、傳死病。しかのみならず、鐘鏤法華堂のかはづるみ、讒言仲人、いさかひ合の仲間口、貧苦界の入たけり、無能女の隣ありき、又は堂塔の檜皮喰ひぬく大鳥小鳥め、聖教破る大鼠、小鼠め、田の嚋穿つ土豹、此の如き奴原に於ては、永く遠く根の国底の国まで払ひ退くべきものなり。敬白謹上再拜。[21]
牛祭はかつて毎年10月12日に行われていたが、現在は牛の調達が困難のため不定期開催となっており、特に近年では暫く実施されておらず今後も再開の見通しもたっていない。
京都市が、広隆寺に隣接して建てられていた右京区役所を移転の上、留学生寮を建設するため、旧右京区役所の解体工事を2009年(平成21年)3月から開始した。ところが、この工事による振動で、地蔵堂と薬師堂の壁などに10ヵ所以上に亘りヒビが入るようになったとして、広隆寺が京都市を相手取り、同年8月5日に京都簡裁に、工事手順の改善や、土地利用の具体的な条件設定などを求める調停を申し立てた[22]。一方、京都市側も、広隆寺に対し、工事妨害の禁止を求め、京都地裁に同年12月5日に仮処分を申し立てた[23]が、翌2010年1月12日に取り下げ[24]。また、広隆寺側も、同年1月に工事続行禁止を求める仮処分を京都地裁に申し立てたものの却下され、大阪高裁に抗告中である。こうした中、京都市は2010年(平成22年)2月5日から地上部分の解体工事を特別抗告の結果を待たずに再開した[25]。市側は、振動を軽減する改良を行ったとしているが、広隆寺側は強く反発している。
霊宝殿の拝観は有料。桂宮院本堂は非公開。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.