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人は生まれつき善とする説、悪とする説 ウィキペディアから
性善説(せいぜんせつ)と性悪説(せいあくせつ)は、「人はみな生まれつき善の性質をもつ」とする説と「悪の性質をもつ」とする説。
古代中国の儒家の『孟子』と『荀子』の説に由来する。日本では、明治時代に哲学・倫理学の問題として再解釈された[1][2][3]。そこから派生して、現代の日本では様々な文脈や意味合いで使われる。
本項では、世碩の性有善有悪説、告子の性無善無悪説、王充や韓愈の性三品説(せいさんぴんせつ、せいさんぽんせつ)[4]といった、関連する他の説についても述べる。
現代の日本では、性善説は「人はみな善人である」という楽観主義、性悪説は「人はみな悪人である」という悲観主義、といった意味合いで広く使われる[5][6][7][8]。しかし本来は、楽観主義や悲観主義ではなく[5][6][7]、どちらも「教育の重要性」を主張するための説だった[7](詳細後述)。
「性」「善」「悪」いずれも古代から明確な定義が無く、そのせいで議論がすれ違ったことが対立の原因である、とも言われる[9][10][11][注釈 1]。
ここでいう「性」は「自然本性」「生まれつきの性質[13]」「生まれながらの性質」「本質的属性[14]」「先天性」「天与の性」などと訳される。
古代中国において、「性」は善悪の問題に限らず様々な文脈で論じられていた[15][16]。孟子と荀子の前後には、例えば『論語』陽貨篇の孔子の言葉「
孟子の性善説は、「世に悪人がいる」ことを前提に「それでも性は善である」と主張する説だった[28]。つまり孟子によれば、どんな人間でも井戸に落ちそうな幼児や屠殺されそうな家畜を見たとき、憐れみなどの道徳感情(
孟子の没後、荀子が現れた。
荀子の性悪説は、専門家の間でも諸解釈あるが[33][34][35][36][37]、最低限基本的には次のように解釈される。荀子によれば、孟子の性善説は誤りであり性は悪である。善は、教育などの後天的作為・人為によって初めて得られるもの(
しかし荀子は、性悪なる人間がなぜ善人になろうとするのか、教育を行う側の人間の善はどこから生じたのか[注釈 8]、などの点を明確にしなかったため、後世に「性悪説の矛盾」として批判や諸解釈を生むことになった[33][42][43]。
性善説と性悪説には共通点もあった。例えば、どちらも「教育の重要性」を結論とすること[7]、「善人も悪人も性は皆同じ」とすること[44]、などが挙げられる。
『韓非子』の韓非は性悪説の継承者である、としばしば言われる[45][注釈 9]。これは、韓非が李斯とともに荀子に師事した、と『史記』に伝えられるためである[45]。
しかし実際は、韓非の性説は不明である、とする見解もある[46]。すなわち、『韓非子』の本文中に性の善悪を論じた箇所は無く、その人間観も荀子と異なる(例えば韓非は民の教育よりも民のコントロールを重視した)とされる[46][注釈 10]。
『孟子』に登場する告子は、「性無善無悪説[15]」(性無善無不善説、無記説[20]とも)と呼ばれる立場をとった。すなわち「性は中立的なものであり善も悪も無く、善悪はどちらも後天的である」という立場をとった。
漢代の王充は、『論衡』本性篇で、諸子百家から漢代までの性説の歴史を述べている。王充によれば、孟子・告子・荀子より先に、世碩・宓不斉・漆雕開・公孫尼子が性の善悪を論じていた[注釈 11]。とくに世碩は「性は善悪の両方を陰陽のごとく有しており、性の養い方次第で善人にも悪人にもなる」という立場をとった。この世碩の説は「性有善有悪説[50]」と呼ばれる。
王充はまた、漢代の劉向による性悪説の矛盾の指摘や、揚雄・董仲舒・王充自身の性説についても述べている。このうち揚雄の説は「性善悪混在説[51]」(性善悪混説、性善悪混合説[15]とも)と呼ばれ、詳細は不明ながら当時有名な説だったことが窺える[51]。
董仲舒や王充は「性三品説」と呼ばれる立場をとった[52]。漢の賈誼[53]・班固[54]・荀悦[54]、南朝梁の皇侃[54]、隋の文中子[15]、唐の韓愈[15][54]らの立場も、性三品説に含まれる。
性三品説は、各人の「品」(等級・ランク)によって性は異なるとする説だった[55]。すなわち、
という説だった[55]。性三品説は、『論語』陽貨篇の「
朱子学の成立前夜、性をめぐる議論が再燃した[57]。ただし、説のパターンは漢代までに出揃っていた[11]。
魏晋南北朝時代、「性」が儒教だけでなく玄学・道教・中国仏教の術語にもなった[14][注釈 12]。
唐代から宋代には、儒教側の道教・仏教への対抗の高まりや、古文復興運動・道統論による『孟子』『中庸』の再評価を背景に、多くの儒者が性を論じた[58]。その先鞭をつけた韓愈は、『原道』で孟子を再評価しつつ『原性』で性三品説の立場をとった[59]。そのほか、唐代には李翺・欧陽詹・皇甫湜[60]、宋代には欧陽脩・王安石・蘇軾・司馬光・李覯・徐積[61][62]、そして程兄弟・朱熹ら宋学・朱子学の人物が[58]、それぞれ性の善悪を論じた。
宋代より後、朱子学が儒教の正統となる。朱子学では、孟子の性善説にもとづいた「性即理」が説かれた[63][注釈 13]。また『孟子』が「四書」として儒教経典に昇格された。そのため、宋代より後は性善説が正統となり、他の説は否定された。
明の王陽明は、「心即理」を説いて性善説にもとづきつつも[64][65]、「無善無悪説」を提唱して善悪の超越を目指した[65](四句教)。陽明没後の陽明学派では、この無善無悪説の解釈をめぐって論争が起こり、その中で「孟子の敵の告子と同じ説になっていないか」とも言われた[66]。
明末のマテオ・リッチは『天主実義』で、朱子学の性善説を自力救済論と解釈した上で、キリスト教の他力救済の観点から性善説を批判した[67]。一方フランチェスコ・サンビアシは『霊言蠡勺』で、キリスト教の霊魂(アニマ)と性を結びつけて性善説を容認した[68]。
江戸時代の日本の儒教では、中国と同様に朱子学が正統とされたため、性善説が正統となった。各地の藩校や漢学塾では『孟子集註』が教材として読まれた[72]。また林羅山・山崎闇斎・伊藤仁斎・石田梅岩ら多くの学者が性善説を肯定した[73]。しかしその中で、荻生徂徠のように性善説を否定する学者もいた[74]。
明治時代、西洋哲学の輸入に伴い「東洋哲学」「中国哲学」という分野概念が生まれると、性説が哲学・倫理学の問題として再解釈されるようになった[2][3]。1880年(明治13年)西村茂樹の論文『性善説』を先駆として[75][10][1]、細川潤次郎[75][10]・滝川亀太郎[75]・井上哲次郎[76][75][10]・三島毅[75]・藤田豊八[75]・蟹江義丸[75]・加藤弘之[75]・内田周平[76]・津田真道[10]らが、性説の歴史の整理や論評をおこなった。
なかでも井上哲次郎は、セネカやルソーは性善説、ホッブズやショーペンハウアーは性悪説、といったふうに東西の類似視を積極的にした[77][78]。ホッブズに関しては、ホッブズを日本に最初に紹介した西周『百学連環』(明治3年)でも性悪説と類似視されていた[79]。
21世紀現代では、高校教科の「倫理」や「漢文」で、孟子と荀子の代名詞的思想として「性善説と性悪説」が教えられている[80][81]。また、無人販売所や回転寿司の仕組み[82][83]、哲学カフェ[84]、教育論[7]、組織論[85]、量刑判断・厳罰化[86]、といった様々な文脈で「性善説と性悪説」が論じられている。
脳科学・道徳心理学の観点から「性善説と性悪説どちらが正しいか」を論じた研究もあり、善悪を行うときの脳の状態や「サイコパスをどう説明するか」も考慮して論じられている[87][注釈 14](阿部 2021)。あるいは、進化生物学における社会性や利他的行動の起源論が性善説に近い、とも言われる[89][90](道徳の進化、社会生物学)。
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