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日本の女性声優 (1971-) ウィキペディアから
木村 亜希子(きむら あきこ、1971年6月28日[1] - )は、日本の女性声優、歌手。福井県吉田郡松岡町(現永平寺町)出身[1]。ケッケコーポレーション所属[2]。所属レーベルはターゲット・エンタテインメント[5]。
福井県吉田郡松岡町(現永平寺町)で2人姉妹の長女として生まれる[6]。
小学生の頃合唱コンクールがあり、ピアノを習っていたため伴奏を担当[7]。選ばれてから「どうしよう」と思っていたが、コンクールを無事終えたところ楽しく、人前で何かをする楽しさを知ったのはそれが最初かもしれないという[7]。
授業中に教科書を音読することも好きであり、福井県出身だったが、実家は母が地元の人物ではなかったこともあり、それほどなまっておらず、朗読を教師が褒めてくれたという[7]。
元々テレビ、アニメを見ることが好きであり、中学生の頃にアニメ映画『アリオン』で声優という仕事があることを知り、面白そうだと思ったことが声優になることのきっかけとなる[7][8]。
中学時代は2週間ぐらいは体操部に体験入部をしていたが、小さい頃、事故で前歯が抜けてしまったことがあり、「体操部でケガをしてまた歯が抜けてしまったら嫌だな」と思い結局、吹奏楽部に所属し、ホルンを担当、1回だけ中部地区大会に出場した経験を持つ[7]。高校時代は単純に漫画が好きで漫画研究部、大学時代は袴姿がカッコよかったこと、今まで運動部経験がなかったため、「運動部に入ってみたい」ということ、「少し変わったことをしてみたかった」ということから、合気道部に所属していた[7]。
以前から友人に「声優になりたいな」と話をしていたが、進路を決める時期で「やっぱり声優になりたい」と思い、アニメ雑誌などで養成所の記事を読んでいた[7]。
養成所の資料を取り寄せて「東京の声優養成所に行きたい」と両親に相談していたが、「とんでもない」と猛反対された[7]。その時に「養成所に行けなくてもいいからとにかく東京に出たい」という気持ちもあり、再び両親に相談していたところ「大学進学するのだったら東京に出てもいいよ」と許しを得て埼玉県の大学の教育学部に進学[7]。
大学時代も特に何もしてはいなかったが、声優になること、演技をすることを思っていた[7]。演劇集団があったが、入団すると「学校に出てこなくなるところだよ」と噂があり、避けていた[7]。授業の中で演技をすることがあり、そこで授業の一環で小さな発表会のようなことをしていた[7]。
その時は楽しいと思う気持ちが強く、知っていた友人、先生が見に来てくれて恥ずかしさもあったが、演じている間は「集中してできたな」と語る[7]。あまり人前で何かをするタイプではないことからから、見に来てくれていた先生も「こういう一面もあるのか」と驚いていたという[7]。
大学4年生の時に「声優になるためにそろそろ真剣に動かなくては」と思い、NHKの通信教育の朗読・ナレーション講座を始める[9]。
周囲の友人は就職活動を始めていたが、木村は「声優になるのだから」と思っていたことからそれほど真剣には就職活動をしなかった[9]。ただし、「生活するためにどこかに就職しなくては」という気持ちはあったが、そんな思いだったことから、なかなか就職が決まらなかったという[9]。
大学卒業後、テレホンセールスの仕事をしていた[9]。しかし売っているものを信用できなかったこと、商品を少し誇大気味にセールスをしなければならなかったことが精神的に苦しくなって続けられなくなってしまった[9]。
「生活もしなければならない、どうしようか」と迷い、母に相談していたところ「辞めなさい」「どうしようもなくなったら帰れるところがあるのだから」と言ってくれて「ありがたいなぁ」とに感謝していた[9]。1週間でその会社を辞めたという[9]。
その後は警備会社の経理事務の仕事をしながら青二プロダクションが一番メジャーだったことから活躍していた声優が青二プロ所属が多かったからというのもあり選択した青二塾日曜クラスに通っていた[8][9]。
その会社の社長が理解のある人物で、面接に行った時に正直に、「私は声優になりたいのです。それで養成所に通うので日曜の仕事には出られません」と正直に伝えていた[9]。その時に採用してくれ、これ以降もたくさんお世話になったという[9]。
「日曜クラスだけでは絶対足りない」と思い、「いずれ週5日レッスンのある青二塾の本科に入ろう」と考えていたが、経済的に苦しいということがあり、「とりあえず1年間は養成所に通うのはやめて働いてお金を貯めよう」と考えていた[9]。
お金を貯めるための1年後、養成所の広告が雑誌に掲載され始める頃から検討をし始め、1年前に考えていた青二塾の本科の他にも色々な養成所の資料を請求して、入所オーディションを2、3受けていた[9]。
その中の一つが、のちに通うことになる難波圭一が主宰する松濤アクターズギムナジウムであり、オーディションの時の個人面接で難波に「何で声優をやりたいの?」と聞かれた[9]。その時に「中学校の頃に声優を知ってから声優になるのが夢なんです」と話をしていたところ、「夢だって言ってるうちは無理だからやめたほうがいいよ」と言われてしまったことから、泣きそうなくらいショックだった[9]。後のことはあまり覚えていないくらいで「何でこんなことを言われなければならないのだろう?この人とは気が合わないのかも…」と思っていたという[9]。
丁寧にオーディションしてくれたというのがあり、面接であそこまで言ってくれるのはなかなかないことなため、「入所したら得られるものがあるかもしれない」と思った[9]。当時、授業料が安かったのもあり、合格後に松濤アクターズギムナジウムに通うことを決めた[9]。
同アクターズギムナジウムに入所後、火曜・木曜・土曜の夜の時間帯でレッスンがあったが、土曜は会社が休みだったため、問題なく、火曜、木曜は前もって会社に「養成所がありますので定時に帰ります」とお願いしていた[10]。
同アクターズギムナジウム内のオーディションに選ばれてCDドラマに出演[10]。決まった時は嬉しく、1週間ほどだったが、オーディションがあってから結果が出るまでは長く感じ、その仕事ができたということの喜びのほうが強かったという[10]。
このオーディション以降、何回か現場に入れてもらったり、オーディションを受けさせてもらっていた[10]。同アクターズギムナジウムのオーディションに何回も落ちていたことから「オーディションに落ちれば落ちるほど、やはり私には才能がないんじゃないか」と思うようになる[10]。同アクターズギムナジウム1年目の卒業の頃に「継続して学びたい」と思っていたことを難波に相談していた[10]。その時に「オーディションに何回か落ちたってそれは普通のことだから気にすることはない。もう1年学んでみたら」と言われてもらい、継続を決め、その直後のオーディションで同アクターズギムナジウムの2年目の春に『LEGEND OF BASARA』の主人公、更紗役でデビュー[1][10]。
声優としての活動をするようになってから就職先での仕事は初めのうちは前もって休みをくれて対応していた[10]。『LEGEND OF BASARA』の仕事をし始めてからは、週に何回か休まなくてはならなくなり、3年ほどそこに勤めていたが、終わりのほうは月に1週間ほどしか出勤できないようになっていた[10]。社長は「今、会社を辞めてしまうと収入的に苦しいだろうから仕事のあるときだけ出てきてくれればいいから続けたら」と言ってくれて、「いつまでも甘えているわけにもいかない」と思い、退社した[10]。
退社時は、自分がどっちをやりたいか考えて、「やはり声優を!」という思いが1番にあったため、「会社に迷惑がかかる」という思いもあったが、会社に行っている時間を「もっと自分の勉強に使ったらオーディションにも受かるかもしれない」と思い、くぎりとして決断していた[10]。
最初に始まった仕事が毎週公開録音のラジオ番組で、ラジオを声優としての活動として想定していなかったため、何をしたらいいのかわからなかった[10]。人前で話すのが一番苦手だったから、この仕事が始まってしばらくは「もう仕事に行きたくない」と思ったことが何度もあった[10]。
全てが初めてでしたため、構成作家が常に隣にいてフォローしてくれ、「1日10個、何でもいいからメモしてきなさい」と言われた[10]。それはラジオの残り1分に話題として使ったり、今まで気づけなかったことに気づけるようになったりするからということだったが、今まで興味のないことに興味を持てるようになったりと、勉強になったという[10]。
2年目にテレビアニメ『LEGEND OF BASARA』の放送開始し、その関連の仕事で忙しくなった[10]。当時は知名度があるわけでもなかったため、店頭でキャンペーンをしたこともあった[10]。ただし、『LEGEND OF BASARA』は東京だけの放送ではなかったため、ファンが「作品を見ました」が少しでも来てくれたのがうれしかったという[10]。
『LEGEND OF BASARA』のオーディションに合格した当初はうれしさ、楽しさが勝っていたが、関わっていくうちに、「自分にできるの?」という気持ちが大きくなった[10]。自分が今までやってきたこと、レッスンに対して自信があったわけでもなく、周囲の役者は皆ベテランばかりで、小ささを感じたりしていた[10]。
現場に行き、出来ることには限度があるため、まずは集中し、出来ることをするしかなかった[10]。現場で一緒になった人物の演技を一生懸命観察するなど、家でテレビ、映画を見ていた時にも仕事の一環として意識して見るようになったという[10]。
2013年1月9日に第一子となる男児を出産したことを発表した[11]。
声優としては、テレビアニメを中心に活躍している[1]。歌、舞台にも活躍している[7]。
しばらくの間、舞台にあまり関心がなく松濤アクターズギムナジウムに入所し、難波に指導を受けるようになってから、何度となく「声優っていうのは役者(舞台)と一緒なんだ」と聞かされていた[12]。初めて意識するようになったが、「舞台に率先して立ちたい」と思うことはなく、気持ちのどこかで「舞台に立っていない」ということに引け目を感じていた[12]。現場で一緒していた声優は舞台をしていることが多く、そういう中で舞台に立ったことがないことがいけないことのように感じるようになった[12]。なかなか自分から「舞台に立たせてください」と言う勇気もなかったが、その時に難波の劇団で「舞台に出てみないか」と誘ってくれたため、「いい機会」と思い、最初に参加[12]。していたところ、恥ずかしさと難しさを感じていた[12]。
最初は稽古があったが、客の顔が直接見えない仕事の声優と、前に出て身体を動かして全てを客に見せるという違いが、どう動いたらいいのか全く分からなかった[12]。
2005年時点でも舞台に対して苦手意識がある[12]。稽古中は「もうだめだ…もう舞台はしばらくいいや」と思い、何度もくじけそうなこともあるが、本番になってしまうと楽しく、公演が終えると「舞台ってやっぱりいいなぁ」と思う不思議な魅力があるという[12]。
妹は同じ大学の出身で一緒に暮らしていた時期もある[9]。
太字はメインキャラクター。
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