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日本の大相撲力士、プロレスラー (1961 - ) ウィキペディアから
田上 明(たうえ あきら、1961年5月8日 - )は、日本の元男性プロレスラー、元大相撲力士、実業家、飲食店経営者。埼玉県秩父市出身。血液型A型。身長191cm、体重115kg[1]。大相撲力士 - プロレスラー時代は身長192cm、体重120kg。
力士時代は押尾川部屋所属で四股名は玉麒麟 安正(たまきりん やすまさ)。最高位は西十両6枚目(1987年1月場所)。得意技は右四つ、寄り、上手投げ。
全日本プロレスの運営会社・全日本プロ・レスリング株式会社の取締役、プロレスリング・ノアの運営会社・株式会社プロレスリング・ノアの代表取締役社長、事業を譲渡されたノア・グローバルエンタテインメントの相談役を歴任した[1]。
建築業の長男で、秩父市立影森中学校時代は走り高跳び・砲丸投げ・野球(投手や外野手)・柔道など様々なスポーツで活躍した。卒業後は埼玉県立秩父農工高等学校の定時制に通いながら自動車整備の職に就いたが、相撲部顧問の熱心な勧めで「野球だと余程強いチームじゃないと全国大会に出られないけど、相撲だと出られる可能性が高いし、あちこちに行ける」と思って相撲部に入部し、2年生の時に全国高等学校相撲選手権大会で3位に入賞した。1年生の秋に押尾川部屋で合宿して勧誘されていて「高校だけは卒業したい」と断っていたが、熱心な勧誘と母の勧めで入門を決意し、3年生の3学期に入門した。1980年1月場所に本名の「田上」の四股名で初土俵を踏んだ。1986年5月場所に十両に昇進し、本名の田上から玉麒麟 安正(たまきりん やすまさ)と改名した。なお、下の名である安正は田上の高校時代の恩師の名に因む。新十両の場所は7勝8敗と負け越し、幕下へ陥落。四股名も本名の田上に戻している。しかし、1場所で十両に復帰してからは、四股名を再び玉麒麟と名乗っていた。
右四つの型に填れば抜群の力を発揮し、十両でも安定した成績を残し幕内昇進も期待されたが、師匠・押尾川親方(元大関・大麒麟)との確執もあり、3場所連続で負け越したあとの(ちょうど同部屋・同年力士の益荒雄による、いわゆる「益荒雄旋風」の最中であった)1987年7月場所前に廃業した[2]。
その後、知り合いだった落語家の三遊亭楽太郎(6代目三遊亭円楽)の勧めもあり、プロレスラーに転身した。楽太郎は天龍源一郎の中学時代の同級生で、その伝手で全日本プロレスの入団が決まったという[2]。
師匠との確執の末の大相撲廃業についてはプロレス引退後に「この部屋にいたくない、大麒麟を親方と呼びたくないっていう気持ちが強くて、その先のことなんか考えずに部屋を飛び出しちゃったよ」と語っており、プロレス転向については「相撲とプロレスはだいぶ違うけど、どっちも体を使って戦うわけだし、食い扶持がねぇから切羽詰まってプロレスラーになったんだよ」と説明していた[2]。
1987年8月、ジャパンプロレスに入団[注 1]。全日本プロレスで新弟子修行を行った。小橋建太が同期入団に当たる。
翌1988年1月に全日本へ正式に移籍し、1月2日にジャイアント馬場とのタッグでデビュー戦を行った。だが以降数年間は伸び悩む時期が続いた。
1990年、メガネスーパーが資本元となる新団体SWSの旗揚げにより谷津嘉章を始め、多くの選手が全日本プロレスを離脱してしまう。田上もパートナー難に悩んでいたジャンボ鶴田からの要望により、当時所属していた超世代軍を離れて鶴田とタッグを組み超世代軍との抗争を展開する。大勝負の経験を積むうちにレスラーとして成長し、1992年3月4日には鶴田とのコンビで世界タッグ王座を獲得、トップレスラーの一人となった。この時期はシングル戦でも川田利明と抗争を展開した。
鶴田が肝炎で第一線を退いた後は、超世代軍を離脱した川田とコンビを結成する。このコンビは「聖鬼軍」を名乗り、2000年に大量離脱・ノア発足で田上が全日本を退団するまでトップ戦線で活躍した。世界タッグ王座史上最多となる6度の載冠を果たしている。
1996年には、チャンピオン・カーニバル、三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座、世界最強タッグ決定リーグ戦を全て制する活躍を見せた(グランドスラム)[3]。
1996年5月24日の三冠ヘビー級選手権試合において、シングルマッチで三沢光晴から初勝利をあげる。四天王の中では初の快挙となった。
その後も、川田とのタッグを中心にプロレス四天王の一員として三沢や小橋、スタン・ハンセンらと激闘を繰り広げた。しかし馬場が亡くなった1999年には、馬場没後初の三冠戦でベイダーとの王座決定戦を戦うが、敗れた。世界最強タッグ決定リーグ戦では川田の欠場もあり、ハンセンとのタッグで準優勝に終わる。
1999年5月に三沢が全日本社長に就任した新役員体制では、取締役に就いた。
2000年に、田上は三沢らと全日本プロレスから離脱しプロレスリング・ノアに移籍。取締役に就任した。
ノアに移籍後は3度のGHCヘビー級王座挑戦のチャンスがありながら、ベルトを巻くチャンスが無かったが2005年9月18日の日本武道館大会で小橋とタッグを組み天龍、秋山準組と戦った一戦が大きな契機となり、2005年11月5日・日本武道館で行われた大会で王者・力皇猛に挑戦、田上も何発ものラリアットや必殺技「無双」を受けながらも必殺技「オレが田上」で力皇を下し、GHC初戴冠を果たした。
2008年1月にデビュー20周年を迎え、後楽園ホールで行われた田上の記念試合では後援関係者のほかに、亀山つとむ、ザ・グレート・カブキ、そして田上の愛娘がそれぞれリングに上がり、花束を贈呈した。
2009年7月6日、初代社長の三沢が試合中の事故により急逝したことに伴い、田上は第2代プロレスリング・ノア代表取締役社長に就任した。既にこの時点でノアは約2億円の負債を抱えた状態で、小橋が社長就任を断ったため田上に話が回ってきた経緯があり、三沢の妻や仲田龍らに頼み込まれて仕方なく引き受けたという[4]。つまり、ノアを存続させるために田上が負債4億円を背負い、自己破産せざるを得なくなってしまったのである[2]。
9月27日に日本武道館で行われた三沢の追悼興行で、田上は全日本の武藤敬司と社長タッグを結成したが小橋&高山善廣組に敗れた。10月には、大阪府立体育会館での三沢光晴追悼興行で川田との聖鬼軍タッグを9年4ヶ月ぶりに復活させ、秋山&KENTA組と対戦し勝利をおさめた。
2010年7月19日の秋田市セリオンプラザ大会では、川田に加え小川良成との聖鬼軍トリオでモハメド・ヨネ&金丸義信&平柳玄藩組から勝利をした。
2013年5月12日の会見で、12月にラストマッチを行い引退すると表明[5]。
12月7日の有明コロシアム大会にて田上の引退試合が行われ、歴代の付き人である平柳・森嶋猛・杉浦貴と組み天龍源一郎・藤波辰爾・井上雅央・志賀賢太郎組と対戦し「オレが田上」で井上からフォールを奪い、有終の美を飾った。試合後にはかつて四天王で活躍した小橋・川田もリングに上がり、田上の引退セレモニーを行った。
引退後、田上はノアの社長業務に専念していたが、2016年11月1日にIT企業のエストビー(のちのノア・グローバルエンタテインメント)に対してノアの会社運営、プロレス興行及び関連する事業を譲渡した上で新会社の相談役に就任した[6](翌年2月に退任[1])。後に田上が語ったところによれば、事業譲渡時点でノア(旧社)は約4億円の負債を抱えており(つまり田上社長になってから2億円負債が膨らんだ)、さすがに限界を感じていたところに買収の話が来て「正直、ホッとしたね」という[4]。社長を退く際に個人資産もほとんど売り払って一文無しの状態となり、一時はヤマト運輸の集配所で深夜に仕分けのバイトをしていた[4]。
その傍らステーキ店経営について松永光弘に師事した後、茨城県つくば市にて「ステーキ居酒屋チャンプ」をオープン[注 2]。田上が自ら肉を捌いて調理し、店内で接客も行なっている[7]。田上は元々、釣りを趣味としていた関係上魚を捌くのがお手の物であり、肉の下処理もすんなりとマスターしたという[8]。
2018年3月、田上は自宅で倒れて救急搬送された際、胃から大量出血を発症したため病院での緊急の輸血措置を行って一命は取り留めたものの、病院での精密検査で胃がんと判明した。4月16日に胃の全摘出手術を受けた[1]。最初は胃潰瘍で入院したが、入院中に収取期の血圧が60、拡張期が40と極度の低血圧になり、家族全員が病院に呼び出される事態となった。田上は元々、不整脈であり血液の粘度を下げる薬を服用していたせいで血が止まらなくなったという[8]。
2023年10月、自伝『飄々と堂々と』(竹書房)を上梓[2]。
このプロレスラーのエピソードに関する文献や情報源が必要です。 (2009年7月) |
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1980年 (昭和55年) |
(前相撲) | 東序ノ口14枚目 休場 0–0–7 |
(前相撲) | 東序ノ口30枚目 6–1 |
西序二段87枚目 6–1 |
西序二段22枚目 6–1 |
1981年 (昭和56年) |
東三段目59枚目 6–1 |
西三段目13枚目 2–5 |
東三段目37枚目 4–3 |
西三段目23枚目 3–4 |
東三段目34枚目 3–4 |
西三段目44枚目 5–2 |
1982年 (昭和57年) |
東三段目21枚目 4–3 |
東三段目10枚目 4–3 |
西幕下60枚目 4–3 |
東幕下48枚目 2–5 |
西三段目13枚目 6–1 |
東幕下40枚目 3–4 |
1983年 (昭和58年) |
西幕下49枚目 2–5 |
東三段目18枚目 3–4 |
西三段目36枚目 6–1 |
西幕下53枚目 5–2 |
西幕下33枚目 5–2 |
東幕下19枚目 3–4 |
1984年 (昭和59年) |
西幕下27枚目 5–2 |
東幕下14枚目 3–4 |
東幕下21枚目 2–5 |
西幕下40枚目 4–3 |
東幕下29枚目 3–4 |
西幕下43枚目 4–3 |
1985年 (昭和60年) |
西幕下30枚目 6–1 |
東幕下11枚目 2–5 |
西幕下32枚目 5–2 |
東幕下19枚目 3–4 |
東幕下26枚目 5–2 |
西幕下14枚目 5–2 |
1986年 (昭和61年) |
西幕下6枚目 5–2 |
東幕下2枚目 5–2 |
西十両12枚目 7–8 |
東幕下筆頭 4–3 |
東十両13枚目 9–6 |
西十両9枚目 8–7 |
1987年 (昭和62年) |
西十両6枚目 6–9 |
東十両10枚目 7–8 |
東十両11枚目 7–8 |
西十両13枚目 引退 0–0–0 |
x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
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