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日本の言語学者・国語学者・邦楽研究家(1913−2004) ウィキペディアから
金田一 春彦(きんだいち はるひこ、1913年〈大正2年〉4月3日[1] - 2004年〈平成16年〉5月19日[2])は、日本の言語学者[3]、国語学者、邦楽研究家[4]。日本語の音韻学が専門。国語辞典などの編纂、日本語の方言におけるアクセント研究で知られる[5]。邦楽にも造詣が深く、平曲研究の第一人者。著書に『日本語の特質』(1980年)、『日本語(新版)』(1988年)、『平曲考』(1997年)など。文学博士[6]。栄典は勲三等旭日中綬章[7]、紫綬褒章[8]、瑞宝重光章。
その他の表彰歴として文化功労者[9]、東京都名誉都民[10]など。
父の京助も文学博士で日本学士院会員。長男の真澄も文学博士で慶應義塾大学名誉教授、次男の秀穂は言語学者で杏林大学外国語学部教授、長女の美奈子はフリーライター[11]。従伯父に実業家の勝定がいる。
1913年4月3日、東京府東京市本郷区森川町1番地(現在の東京都文京区本郷六丁目10番)[12]にて誕生する[13]。金田一京助と静江(旧姓・林)の間の長男かつ一人子[13]。父からは学問への情熱を、母からは世俗性を受け継いだ。春彦の出生当時、京助は三省堂百科事典の校正係の職を失って無収入であり、一家は経済的にどん底の状態にあった。しかも京助と同郷で懇意にしていた石川啄木(啄木は岩手県南岩手郡日戸村、京助は同郡仁王村の出身[14])が、新婚時代の金田一家に押しかけて、静江が婚嫁の際に持参した着物などを、勝手に質に入れては流してしまった[15]。そのことを静江から繰り返し聞かされて育った春彦は、後年「石川五右衛門は石川啄木の兄貴か何かであるように思った」と回想した[15]。
1921年4月、最寄の東京市立誠之小学校は、駒込西片町の教養ある家庭の子弟が多く進学校として評判の高い学校だったが、父の京助が住民票を移し忘れた関係で[16]、菊坂町の庶民的な商家の子供が多数を占める東京市立真砂小学校(現在の文京区立本郷小学校)に入学する[17]。翌年、学区内の真砂町23番地(現在の本郷四丁目11番6号)に越す[12]。この学校では国語よりも算術や地理や唱歌に興味を示し、誠之小学校で本居長世から歌唱の指導を受け、頭を撫でてもらったことから、本居の人柄を慕うようになった。4年生のときには、本郷区全体の小学校の唱歌会に真砂小の代表者として出場して独唱する。
この頃、夕食の席で言語学者・佐久間鼎の『国語の発音とアクセント』が話題になっていた時、自らの発音に基づいて佐久間の学説を批判し、京助から喜ばれる。このとき褒められた経験が自信となり、後年アクセントの研究者として一家を成すに至ったという。また、盛岡出身で標準語の発音に疎い京助のため、幼時からインフォーマントとして研究に協力した[18]。
1924年2月、東京府豊多摩郡杉並町成宗三丁目332番地(現在の東京都杉並区成田東四丁目)への転居に伴い[12]、杉並第二小学校に転校する[17]。6年生のとき、童謡教室「阿佐ヶ谷童謡楽園」に通い、当時小学校2年生だった安西愛子(のちのタレント、参議院議員)と知り合う。
1926年4月、東京府立第六中学校(現在の東京都立新宿高等学校)に入学する[17]。折あたかも円本の全盛期であり、芥川龍之介や国木田独歩、谷崎潤一郎、藤森成吉を愛読する[18]。同級に俳優・植村謙郎、昆虫学者・朝比奈正二郎、社会学者・阿閉吉男がいた。苦手科目は物理学と化学だった。体操の教師と折り合いが悪く[19]、鉄道自殺を企てたほど悩み抜き[19]、早く六中から逃げようとして、1930年4月、4年修了で旧制浦和高等学校文科甲類(第一外国語として英語を、第二外国語としてドイツ語を必修とするクラス)に入学する[18]。第一高等学校も選択肢にあったが、当時自宅に寄寓していたアイヌ人の知里真志保(同年に一高を受けて8番で合格)の秀才ぶりに遠慮した結果、一高受験を断念した。苦手な作文が入試科目になかったのも、浦高を受けた大きな理由だった[20]。浦高文甲1年の同級生に劇作家・福田恆存や警視総監・原文兵衛がおり、同学年に衆議院議員・伊東正義(文乙)、山口県知事・田中龍夫(文丙)、作曲家・三木鶏郎こと繁田裕司(文丙)がいた。
入寮の夜、1級上の春日由三(のちNHK編成部長)の「諸君は恋を得よ」という演説に感動し、その影響で4歳下の安西愛子(当時東京府立第五高等女学校1年生)に生涯一度の恋文を送るも、その恋文は愛子の目に触れることなく、代わりに愛子の父安西庫司(小学校長)から懇々と春彦の非を諭した返事が来た[21][22]。この失恋の件が寮全体に知れ渡り噂になったため、恥ずかしさのあまり学校にほとんど出られなくなり、病気と称して1年生をもう一度やり直すことになった。留年した他の理由は、通常より1年早く4年修了(飛び級)で入学したため自分が人間的に充分成長していないのではないかという不安、倉田百三や阿部次郎や西田幾多郎の著書に代表されるような旧制高校的教養主義への違和感などである。2年の時に丘浅次郎の『進化と人生』を読み、カントやショーペンハウアーといった哲学の非科学性に軽蔑の念を抱く。留年後の同級生である遠山茂樹、市古宙三、板倉勝正は後にそれぞれ日本史・東洋史・西洋史の研究者になり、東京大学で春彦の同僚となった。
金銭的に報われぬ京助の生活を目の当たりにして育ったこと、親の七光りと言われるのを望まなかったこと、学業に関して京助に引け目を感じていたことなどが理由で学者以外の職業に就くことを望んだ末、京助唯一の苦手が音楽であることに着眼して作曲家を志望し、1931年11月に京助の紹介で本居長世の門人となった。なお、同門に藤山一郎こと増永丈夫がいた[23]。安西愛子への失恋体験を題材に、1932年5月の記念祭に際して寮歌『浦和高等学校自治寮音頭』を作詞作曲したこともあるが[注 1]、本居のピアノ演奏の鮮やかさに接して自らの音楽的才能に絶望したことや[23]、本居から「あれはお父様のあとを継ぐ人だ」と評されたのを人づてに知らされたことが理由となって[3]、同年の夏休みに学者志望へと転じ、京助に向かって「僕もお父さんのような学者になろうと思います」と言ったところ、喜んだ京助から日本語の方言のアクセントに関する服部四郎の論文2篇[注 2]を渡され通読し、大いなる感銘を受けた[18]。服部が日本全国の方言のアクセントを明らかにしようと志しつつも満州事変勃発によって満蒙語の研究に転じたことを知り、服部がやり残した部分の日本語の方言アクセントを研究しようと計画したが、言語学科を卒業しても就職困難なることを言語学科出身の父から知らされ、国文科志望となった[18]。
1933年、寮を出て埼玉県北足立郡浦和町岸村の母子家庭三上家に下宿する[24]。夢精で汚れた下着を始末に困って押入れに隠しておいたところ、下宿先の未亡人が厭わず洗濯してくれたことが契機となって、女性には毎月月経があること、男性は女性をいたわるべきであることなどを未亡人から教えられ、啓蒙を受ける。この家の長女珠江(当時小学校2年生)は、後に実践女学校を中退してから春彦に嫁した[24]。珠江の亡父三上大一郎(時事新報記者)は、勤皇の志士三宮義胤男爵の庶子である。
1934年、旧制浦和高等学校文科甲類を卒業[13]、東京帝国大学文学部国文学科に入学し[17]、京助を喜ばせた。同年4月10日、高校生活の最後を飾る意図で、埼玉県入間郡の吾野から越生まで単身徒歩旅行をおこなう。同月から杉並の実家に戻り、大学に通う。当時、東京帝国大学言語学科で助教授を務めていた京助と共に家を出て学校に行くことがしばしばあった。藤村作や久松潜一の講義に失望し、橋本進吉の国語学演習に注目したが、講義の準備に手間がかかりすぎたため、3年の時にはこの講義に出席することを断念した。父京助によるアイヌ語の講義も受けた。益するところ最も大きかったのは、邦楽学者・田辺尚雄の講義「日本音楽の理論と歴史」であった。田辺の影響で謡曲を習った時は挫折したものの、音楽(特に邦楽)への学問的関心は生涯失わなかった。さらに、春と夏だけ植物同好会に入り、牧野富太郎の謦咳に接した[25]。
当初は方言学の研究を志していたものの、方言学の論文を書いても就職できないとおもい、日本語の歴史的研究に没頭する。1936年4月、満州より帰国し東京帝国大学講師に就任した服部四郎から直接指導を受けるようになる。卒業論文では、平安時代のアクセントを示す好個の資料である観智院本『類聚名義抄』を題材にして、日本語のアクセントを歴史的に研究した。1937年に東京帝国大学文学部国文学科を卒えて[26]東京帝国大学大学院に進み[17]、埼玉県東部方言のアクセントを調査する。秋に東京方言学会で研究成果を発表したところ、東條操教授から高く評価され、学界での評価の礎を築いた。このころ、田辺を慕って東洋音楽学会に入会する。
1938年4月16日、大学院に籍を置いたまま応召して甲府の歩兵第49連隊に入営、間もなく龍山の歩兵第79連隊に移された[27]。学歴を使い幹部候補生に応募する事をせず、通常の徴兵検査を通し入営した為、二等兵として軍隊生活を送る事となった。兵士としては無能であり、新兵に対する激しいしごきに苦しみ、のちにこの時期を自らの人生で最もつらい半年間だったと回想している。7月、マントー氏反応(現在のツベルクリン反応)を見る注射の痕を意図的に掻き毟り、軍医に結核と誤診させて[注 3]龍山の陸軍病院に入院する。秋に首尾よく除隊となり、半年ぶりに帰京する。このとき、麻布中学校教諭平山輝男が九州や北陸のアクセント研究を学会で発表していることを知って焦りを持つ。秋に房総半島、冬に伊豆半島下田のアクセントをそれぞれ調査する。
1939年4月、東京帝国大学大学院に再入学。3月には単身伊豆大島に渡り、4月までアクセントを調査する[28]。続いて、静岡県、山梨県、長野県、愛知県、近畿地方、香川県、徳島県、愛媛県などを調査する。傍ら、平家琵琶や仏教歌曲を題材に過去の日本語のアクセントを1年間研究する。この時の研究が、後年(1962年)博士論文の材料となる。
1940年4月、東京府立第十中学校(現在の東京都立西高等学校)の国語教師となる[7](1942年まで[29])。本来は旧制高校で教える希望を持っていたが、専門分野の特殊性ゆえに叶わなかった。京助からは更なる学業継続を許されていたが、大学院生活に終止符を打つことを決意する。3月には、杉並の実家を出て東京市赤坂区表町の三上家に寄寓する。当時の教え子に実業家・堤清二(詩人・辻井喬)、文芸評論家・小田切進、作曲家・大中恩、建設大臣・水野清がいる。このころ、三省堂の依頼により『明解国語辞典』の標準アクセント表記を担当する[30]。
1942年4月、日華学院に移り[7]、終戦まで中国人に日本語を教える。中国人からの質問には「『知っている』の対義語は何故『知っていない』ではなく『知らない』なのか」など、あまり日本人にはない視点からの問いかけが多く、学問的に大いなる刺激を受けた。これと併行して、大西雅雄の世話で国際学友会に嘱託として勤務する。これらの勤めによる俸給の他、『明解国語辞典』による三省堂からの印税で潤ったため、11月6日、当時17歳の三上珠江と結婚。表町で所帯を持つ。
1944年4月、実践女子専門学校講師として国文法と国語史を担当する(1946年まで)。傍ら、寺川嘉四男の世話でフィリッピン協会に勤務する。フィリピン人やビルマ人やマレー人に日本語を教える。10月、空襲を避けて表町から東京都世田谷区北沢に転居する。近所の言語学者石黒修の勧めで大島正徳『現代実在論の研究』を読み、アメリカの新実在論者たちの言説を知って、哲学に対する従来の侮蔑を翻す。
1945年5月、日華学院が東中野の校舎が爆撃で焼失したため埼玉県秩父郡吉田町の寺に疎開する。8月15日、疎開先の東京都西多摩郡羽村(服部四郎の疎開先の隣家)で終戦を迎える。
1946年4月、文部省国語科嘱託となるも[7]低報酬ゆえに生計立たず、三省堂の平井四郎常務に頼み『明解古語辞典』の編緝の仕事を貰う[31]。同年10月、時枝誠記の世話で東大講師となる(1948年まで)。その後も1951年、1954年、1958年、1961年、1962年、1972年、1973年に東大講師を務めた。
1947年3月3日、浦高時代の級友館野守男(アナウンサー、NHK解説委員)の世話でNHK「ラジオ民衆学校」に出演し、日本語アクセントについて話す(永年にわたるNHKとの関係の始まり)。同年12月、NHK「ことばの研究室」の常任講師となる。
1948年3月、秋山雪雄の世話でNHKアナウンサー養成所講師となる(1977年まで)。書き言葉中心だった旧来の国語学に対し、話し言葉中心の国語学を構想する契機となる。
1949年4月、国立国語研究所研究員[7]。同年2月、NHKアクセント辞典改訂に外部委員として参加する。
1950年2月、自ら監修に携わった三省堂の中学国語教科書『中等国語』が全国一の売上を記録する[注 4]。
1951年7月、家主の復員に伴い世田谷区北沢の家から追い立てを受け、訴訟になっていたため、『中等国語』の印税を三省堂から前借りして、東京都杉並区西高井戸一丁目(現在の東京都杉並区松庵二丁目)に土地と家屋を購入し転居する。
1952年11月、ラジオ東京のアナウンサー養成所講師となる。当時の教え子に芥川隆行などがいた。同年12月、『中等国語』改訂版が日本全国の中学校の3分の1で採用される。
1953年、三省堂『明解古語辞典』を完成。国立国語研究所を解雇され[34]、4月から名古屋大学助教授となる[7](1959年まで)。6時間を費やして東京から名古屋まで通勤。将来は東京大学の教授になることを夢見ていた。
1956年11月12日、言語学研究会設立総会で、評議員に選出される。
1957年1月、岩波新書から『日本語』を刊行し、ベストセラーかつロングセラーとなる。
1958年7月、東洋音楽学会理事となる。
1959年3月、時枝誠記が東京大学国語学助教授として春彦より3級下の松村明を採用。東大教授になる夢が潰れ、落胆する。同年4月、東京外国語大学助教授となる[7]。以後、名古屋大学では集中講義のみを担当し、事実上、東京外語大の専任となる。
1961年4月、東京外国語大学教授となる[17]。入試委員として国語の試験問題を作成する[35]。
1962年2月3日、論文『邦楽古曲の旋律による国語アクセント史の研究[注 5]』により東京大学から文学博士号を授与される[37]。言語学と邦楽学の双方にわたる内容で、明恵上人作詞作曲と伝える声明の一曲「四座講式」を手がかりに、鎌倉時代の日本語のアクセントを論じた。博士論文審査員は服部四郎。同年6月、NHK用語委員となる[38]。
1963年4月25日、吉展ちゃん誘拐事件が発生する。自宅のテレビで犯人の身代金要求電話の録音を聴き、何気なく「この発音は茨城か栃木か福島だよ」と呟いたところ、珠江夫人がNHKに電話しこの発言を伝えたため、マスコミから正式に取材を受けることになった。春彦は、犯人の録音テープに含まれる「青」や「三番目」という言葉のアクセントや鼻濁音の使用等から「奥羽南部」(宮城県・福島県・山形県)または茨城県・栃木県出身ではないかという推論を新聞に発表している[22][39]。この記事で春彦は犯人像について「教養の低い人と見られるにもかかわらず(中略)高圧的な言葉遣いをしている」ことから「戦前に軍隊に籍を持ち、下士官づとめをしていた人ではないかと思わせる」と述べているが[39]、こちらは実際の犯人には当てはまらなかった[注 6]。
1964年12月18日、『四座講式の研究』が契機となって、春彦が監修した仏教音楽のレコード『真言声明』が、文化庁芸術祭レコード部門芸術祭賞を受ける[42]。
1965年6月、小松清[注 7]の世話で東京藝術大学音楽学部講師となる(1971年まで)。
1966年春、春日由三の出版記念会で安西愛子と再会し、交誼が始まる。のちに、愛子主宰の杉の子こども会の後援会長となる。
1968年2月から6月まで、ハワイ大学で客員教授として日本語について講じる。滞在中、自らの不注意から交通事故を起こして罰金刑を受ける。帰国後の12月、学園紛争のさなかに「テレビには出るが、大衆団交には一切出なかった」ことを左翼系学生たちから糾弾されたことで辞表を提出するも[44]、このときは不受理となった。
1969年3月、学生運動の活発化にともない、多くの大学が妨害攻勢のため入学試験の実施を中止する中、東京外国語大学の入試を遂行すべく奮闘する。
1970年3月、辞表を再提出。今度は受理され、東京外国語大学を定年前に退職する。
1971年4月、京都産業大学外国語学部の教授に就任する[7]。京都の街は気に入ったが、京産大の学生たちの気風には違和感をもったという[要出典]。
1975年5月、日本琵琶学協会の会長となる。8月1日、小泉純一郎や桂三枝(現・六代 桂文枝)らと共に日本テレビのテレビ番組「異色歌手コンクール」に出演し、一等賞を受賞する(10月26日放映[45])[15]。
1977年4月、池田弥三郎の世話で慶應義塾大学に招かれ、国文科で教える(1980年まで)。同年11月18日、紫綬褒章を受章する[17]。この年、日本放送協会放送文化賞も受賞する[17]。
1982年、国語学会代表理事となる(1985年まで)[8]。
1983年3月25日、師である本居長世の伝記『十五夜お月さん』(1982年12月刊)で芸術選奨文部大臣賞(評論部門)を受賞する[8]。同年11月15日には毎日出版文化賞を、11月19日には日本児童文学学会賞を受賞する[8]。
1984年4月、武蔵野女子大学客員教授となる(1989年3月まで)[46]。テレビ東京のテレビ番組「有名人カラオケ大会」で「人を恋ふる歌」を独唱し、優秀歌唱賞を受賞する。
1988年4月、フジテレビのテレビ番組森田一義アワー 笑っていいとも!金曜日にレギュラー出演する(同年9月まで)。
1989年4月、玉川大学客員教授となる[7](2002年3月まで)、津田塾日本語教育センター主席講師(のちに顧問)となる[46]。同年4月24日、総理大臣官邸で開かれた芸術文化関係者との「懇親のつどい」で、「今の日本の政治は全然心配いらない。すぐれた文化が花開いた時代の政治はあまり芳しくなかったからだ。3%の消費税で大劇場などを作れば、後世の史家は日本文化の栄えた時代を道長、綱吉、竹下登の平成時代とみるだろう」と挨拶し話題となった[47]。
2000年10月、『四座講式の研究』で密教学芸賞を受賞する。同年12月、1965年から別荘を構える山梨県大泉村の名誉村民に選ばれる[25]。村の図書館(現在の北杜市金田一春彦記念図書館)に蔵書を寄贈した[2]こともあり、生前に村役場前の街路が「金田一春彦通り」と名付けられた[49]。
2001年、東京都名誉都民に選ばれる[46]。6月23日、「長坂メセナの会」の主宰で山梨県長坂町の中央公民館にて春彦作曲の歌を歌う会が開催された。
2004年5月19日午前11時10分、クモ膜下出血のため甲府市の病院で死去、享年91歳[2]。第46回日本レコード大賞特別功労賞を受賞する。瑞宝重光章追贈。墓所は多磨霊園(9区2種7側29番)。
純文学(エッセイ)の同人誌である、随筆春秋の指導者を黎明期から務めていた。また、その随筆春秋が毎年主催する随筆春秋賞の審査員も務めた[50]。
「言葉は時代とともに絶えず動いて 変化する」が持論で、ら抜き言葉にも「ら抜き言葉はなくならないし、ら抜きに進んでいくのが自然な流れである」とコメントしている。
春彦は幼いころから、父の京助に漢文の素読や習字で国語を教えられていたが、それを嫌っており、自分の子供とは友達のように共に楽しむことを大切にしていた。息子の秀穂が「金田一」の名の重圧に悩み、大学卒業後も就職せずにいたときも何も言わなかったが、秀穂が留学を希望すると、日本語教師になることを勧めた。これが秀穂の現在の仕事につながった[51]。
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