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アメリカン・ニューシネマ

アメリカ映画のジャンル ウィキペディアから

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アメリカン・ニューシネマは、1960年代後半から1970年代にかけてアメリカ合衆国で製作された映画作品群を指す日本独自の呼び名[1][2][3]

この時期に現れた、従来とは異なる表現やテーマを持った映画作品がアメリカ本国で「ニュー・ハリウッド(New Hollywood)」と呼ばれ、これを指して日本では「アメリカン・ニューシネマ」の語が定着した。どちらの用語も、どの作品を含めるかについては論者によって大きく幅がある[1][2][3]

用語・定義

要約
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ウッドストック・フェスティバルに集まった若者たち(1969年)。「ニュー・ハリウッド」ではこうした若者のアメリカ社会への抵抗やその挫折が主要なテーマになったとみなされ、この見方は日本の「アメリカン・ニューシネマ」定義にも受け継がれた(本文参照)[3][4]

日本で呼称される「アメリカン・ニューシネマ」について、『現代映画用語事典』(2012)は「アウトローアンチ・ヒーローを主人公にすえて多くは反体制を志向」し、「リアリズム表現を基本に (…) 時に暴力の直接的な描写や不道徳とされた性的関係を扱」っていると述べ、物語構造・登場人物や取りあげられる題材が従来のハリウッド映画から大きく変化したことをその特徴と指摘している[5]

また評論家の川本三郎はとりわけ物語と登場人物の変化に注目し、アメリカン・ニューシネマとは「五〇年代のアメリカ社会が築き上げたいわゆるアメリカン・ウェイ・オブ・ライフに対する反抗によって作られたもの」[3]と述べ、「アメリカン・ニューシネマとは、新しく登場したプロテスト世代の論理と感覚の表現だったといっていい」と指摘している[6]

さらに映画評論家の田山力哉は、『未知との遭遇』『エレファント・マン』『スター・ウォーズ』なども「アメリカン・ニューシネマ」作品に数えながら[7]、とくに『ダーティ・ハリー』 や『わらの犬』のような作品が代表的だとして「アメリカ映画は暴力描写が主流を占めるという時代がきた」と述べている[8]

ただ、評論家の樫本慶次はジョナス・メカスなどの実験映画の系譜を重視して「本質的にはアンダーグラウンド映画を落して〈アメリカン・ニュー・シネマ〉を論じてはならない」と述べるなど、日本でもこの言葉の定義は一様ではない[9]

一方、英語圏においても、「若者という主題」や「暴力的・性的表現」に注目した定義が行われている。オックスフォード大学出版局の『映画学事典』では、「ニュー・ハリウッド」が、社会に反旗を翻す登場人物やハッピーエンドの拒否、プロダクション・コードヘイズ・コード)の本格的な解体によって可能になった性・暴力・麻薬などの露骨な映像描写によって特徴づけられる、と指摘している[10]。また映画研究者の小野智恵は、アメリカ映画研究史をふりかえる文脈において、ニュー・ハリウッドについて「多くは (…) 体制批判などの『政治』、犯罪行為などの『暴力』、あるいは『セクシュアリティ』といった主題を扱い、手法的にはハリウッドの形式的・内容的な慣習の批評、解体・再構築、新たな解釈、融合、といった試みを行うものであった」と指摘している[11]

アメリカの「ニュー・ハリウッド」は1970年代以降のハリウッドにおける映画製作全般を指して使われることがあり、この場合には1977年の『スター・ウォーズ』第1作までを含める研究者もいる[4]。アメリカでは他に「アメリカン・ニューウェーブ(American New Wave)」や「ハリウッド・ルネサンス(Hollywood Renaissance)」などの呼称が提案されている[10]

またこれらとは全く別に、60年代前半にニューヨークなどでジョナス・メカスらが開始した反ハリウッド的な自主映画制作の動きを指して「ニュー・アメリカン・シネマ (New American Cinema)」と呼ぶことがある[12][13]

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起源

1967年8月にアーサー・ペン監督『俺たちに明日はない』がアメリカで公開されると[14]、その激しい暴力描写や犯罪を美化するかのような物語に当初は批判が集まった。しかし当時アメリカの映画批評界で大きな影響力をもっていたポーリン・ケイルは『ニューヨーカー』誌(10月13日号)でこの作品を取り上げ、「いま人々が感じ、話し、書いている題材をそのまま映画の世界に持ち込んでいる」新しい試みとして絶賛した[15]。さらに『TIME』誌(1967年12月8日号)はこの作品を表紙に掲げて「ニュー・シネマ:暴力、SEX、アート」なる見出しで特集記事を組む。そして「映画が描く自由の衝撃」と題する長文の解説記事で、ヨーロッパで始まっていた新しい映画の動きとこの作品を結びつけて論じてみせた[16]

アメリカでは、1967年12月末にはマイク・ニコルズ監督『卒業』が公開され、この二つの作品は翌年2月にアカデミー賞を受賞する[17]。そして1969年に、きわめて低予算で製作されたデニス・ホッパー監督『イージー・ライダー』が大方の映画関係者の予想を裏切って全米で大ヒットすると[18]、ハリウッド映画の世界で新しい潮流が始まったことが多くの人に強く意識されるようになった[2][17]

独占禁止法訴訟やTVの普及、若者の意識変化などによって長期の低迷傾向にあった大手映画会社がこれに目をつけ、映画の新しい作り手・俳優を次々に投入してゆくことになる[17]。その代表例として、監督ではフランシス・フォード・コッポラマーティン・スコセッシウィリアム・フリードキンポール・シュレーダーテレンス・マリックなどが挙げられる。

日本では、『キネマ旬報』誌が1968年4月上旬で上記『TIME』記事などアメリカ映画の動向を紹介する特集記事を掲載。『俺たちに明日はない』『ある戦慄』『殺しの分け前/ポイント・ブランク』『冷血』『地獄の天使』(1967)の5作品を「アメリカン・ニュー・シネマ」として紹介し、この語が定着するきっかけとなった[1]

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歴史

要約
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1940年代までの黄金時代のハリウッド映画は、観客に夢と希望を与えることに主眼が置かれ、英雄の一大叙事詩や、正義の味方による勧善懲悪、夢のような恋物語が主流であり「ハッピー・エンド」が多くを占めていた。1950年代以降、スタジオ・システムの崩壊やテレビの影響などにより、ハリウッドは製作本数も産業としての規模も低迷し、またジョセフ・マッカーシーの「赤狩り」が残した後遺症の傷も深かった。映画界ではウォルト・ディズニーロナルド・レーガンたちが赤狩りに全面協力した。アルフレッド・ヒッチコックチャールズ・チャップリンフリッツ・ラングウィリアム・ディターレダグラス・サークといった戦前戦後を通じてヨーロッパから移住、亡命してきた映画作家たちや、ニコラス・レイアンソニー・マンサミュエル・フラーらいわゆる「B級映画(B movie)」とよばれる中小製作会社の低予算映画作家のなかにその萌芽はあった。

一方、ヨーロッパにおいては、戦後イタリアのネオレアリズモシネマ・ヴェリテの手法が各国の若者に深い影響を与え、1950年代中期ロンドンフリー・シネマに始まり、1950年代末期から、フランス、パリヌーヴェルヴァーグ[19]、ロンドンのブリティッシュ・ニュー・ウェイヴプラハチェコ・ヌーヴェルヴァーグ、ドイツのニュー・ジャーマン・シネマ、映画『灰とダイアモンド』に代表されるポーランド派、スイス、ジュネーヴを中心とするヌーヴォー・シネマ・スイス、そして南米ブラジルシネマ・ノーヴォニューヨークニュー・アメリカン・シネマ東京羽仁進大島渚ら)まで飛び火し、世界に広がるニューシネマ運動が起きていた。

いずれも若い監督による新しい感覚や手法を特徴としている。当時ニューヨークには、ヨーロッパからの移民であったジョナス・メカスD・A・ペネベイカーリチャード・リーコックらのドキュメンタリー作家や、現代美術作家アンディ・ウォーホルスタン・ブラッケージジャック・スミスら実験映画作家、ネオレアリズモの影響を色濃く受けたジョン・カサヴェテスらがそれに呼応していた。またカリフォルニア州にも、10代にしてビアリッツの「呪われた映画祭」(1949年)に参加したケネス・アンガーなどの実験映画作家がいた。60年代の代表的なニュー・シネマには『イージー・ライダー』[20]『ウッドストック』や、『俺たちに明日はない』などがあった[21]

まだジャーナリズムの熱意が高かった60年代には、アメリカ市民がベトナム戦争の実態を目の当たりにすることで、ホワイトハウスへの信頼感は音を立てて崩れていった。戦争に懐疑的になった国民は、アメリカ政府の矛盾点に目を向け、若者のヒッピー化、反体制化が見られ、人種差別、ドラッグ、エスカレートした官憲の暴力性などの現象も顕在化した。そして、それを招いた元凶は、政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影していたと言われる。上述のとおり『TIME』誌は、『俺たちに明日はない』を大特集してこの新しい米国映画の動向を詳細にレポートした。

ニューシネマと言われる作品は、反体制的な人物(若者であることが多い)が体制に敢然と闘いを挑む、もしくは刹那的な出来事に情熱を傾けるなどするのだが、最後には体制側に圧殺されるか、あるいは悲劇的な結末で幕を閉じるものが多い。つまり「アンチ・ヒーロー」「アンチ・ハッピーエンド」が一連の作品の特徴と言えるのだが、それはベトナム戦争や大学紛争、ヒッピー・ムーブメントなどの騒然とした世相を反映していた。それと同時に、映画だけでなく小説や演劇の世界でも流行していたサルトルの提唱する実存主義を理論的な背景とした「不条理」も一部反映していたとする説もある[要出典]

低予算映画の流れにはロジャー・コーマンらがおり、アメリカン・ニューシネマの底辺部を、彼ら独立系の映画作家、映画プロデューサーが支えた。そこにはピーター・ボグダノヴィッチデニス・ホッパージャック・ニコルソンピーター・フォンダアーサー・ペンマーティン・スコセッシフランシス・フォード・コッポラらがいた。

終焉

ベトナム戦争の終結とともに、アメリカ各地で起こっていた反体制運動も下火となっていき、それを反映するかのようにニューシネマの時代も徐々に終焉することになる。1979年の『地獄の黙示録』がニュー・シネマの最後の作品との説もある[要出典]

70年代の半ばになると、『タワーリング・インフェルノ』(1974年)を筆頭に、『ジョーズ』(1975年)、『ロッキー』(1976年)、『スター・ウォーズ』(1977年)、『スーパーマン』(1978年)といった明るい商業主義的な映画が人気を博すようになり、スティーヴン・スピルバーグジョージ・ルーカスのような作家たちをハリウッド・ルネサンス(Hollywood Renaissance)とも呼ぶようになった。

町山智浩は、敗戦により落ち込んでいたアメリカ国民が、”明るく希望のあるエンタメ作品”を求めたと、ニュー・シネマの終焉を良いことであると記述した[22]

また、翻訳家・批評家の今野雄二は「友情と思いやりに幻想を求めた男たちの甘ったれた現実逃避が、結局、アメリカン・ニュー・シネマの貧しい本質」であるとしている[23]

映画評論家の遠山純生は「アメリカン・ニューシネマ」の語が日本の映画雑誌や書籍においてどのように用いられてきたかを検証し、「定義付け不可能な実質のない言葉だという認識がありながら、内実が曖昧にされたままだらだらと使い続けられてきたのが日本における“(アメリカン・)ニューシネマ”」と結論づけている[1]

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主な作品

要約
視点

上述のとおり日本語の「アメリカン・ニューシネマ」に統一的な定義は存在しないため、網羅的な作品一覧をつくることは困難だが、ここでは主要な日本語文献で代表的映画と明記されている作品を以下に挙げる[24][3]

さらに見る タイトル/原題, 公開年 ...
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関連文献

(欧文)

  • Buskin, Peter. Easy Riders, Raging Bulls: How the Sex-Drugs-and-Rock 'N' Roll Generation Saved Hollywood (Simon & Schuster, 1998)ISBN 0747590141
  • Harris, Mark. Pictures at a Revolution: Five Movies and the Birth of the New Hollywood (Penguin, 2008)
  • Hunter, Aaron and Martha Shearer. Women & New Hollywood: Gender, Creative Labor & 1970s American Cinema (Rutgers University Press, 2023)
  • Krämer, Peter. The New Hollywood: From Bonnie and Clyde to Star Wars (Columbia University Press, 2006)
  • Kuhn, Annette and Guy Westwell. Oxford Dictionary of Film Studies, 2nd ed. (Oxford University Press, 2020)

(邦文)

  • 高橋洋二編『アメリカン・ニューシネマ '60-'70 < 別冊太陽 >』平凡社、1988
  • キネマ旬報編『世界の映画作家24 アメリカン・ニューシネマの俊英たち』キネマ旬報社、1974
  • 田山力哉『アメリカン・ニューシネマ名作全史』3巻、社会思想社、1981-1994
  • 小野智恵「ニュー・ハリウッド 1967-1980」(杉野健太郎責任編集、日本映画学会監修『アメリカ映画史入門』三修社、2024)

(映像資料)

  • デッド・デーム、 リチャード・ラグラヴァンス監督『アメリカン・ニューシネマ - 反逆と再生のハリウッド史』DVD、ナウオンメディア、2004年(Ted Demme and Richard LaGravenese, A decade under the influence : the 70's films that changed everything, 2003[25]
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関連項目

脚注

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