トップQs
タイムライン
チャット
視点

オーランド・セペダ

プエルトリコの野球選手 (1937 - ) ウィキペディアから

オーランド・セペダ
Remove ads

オーランド・マニュエル・セペダ・ペネス(Orlando Manuel Cepeda Pennes、1937年9月17日 - 2024年6月28日[1])はメジャーリーグ野球選手。ポジションは一塁手。右投げ右打ち。ラテンアメリカベーブ・ルースと呼ばれ、現役時代は「ブル」、「ベビーブル」のニックネームで呼ばれた。熱心な創価学会員であり、その関係で来日もしている。

概要 基本情報, 国籍 ...
Remove ads

メジャーリーガー時代

Thumb
選手時代(1962年)

オーランド・セペダはプエルトリコ1937年に生まれた。父であるペドロ・セペダ(Pedro Cepeda)はプエルトリコやカリブ海周辺国では伝説的なスラッガーであった。

1955年、メジャーリーグのスカウトを受けて17歳で米本土に渡り、ニューヨーク・ジャイアンツと契約。1958年、サンフランシスコ移転初年度のジャイアンツでデビューし、ナショナル・リーグ新人王を受賞。ジャイアンツ時代の1958年~1965年の間に1095試合に出場し、657得点を挙げてウィリー・メイズウィリー・マッコビーらと共に1960年代のジャイアンツを引っ張った。

1960年には日米野球で来日して日本のプロ野球とも親善試合を行った。1966年のシーズン途中にセントルイス・カージナルスに移籍し、その後は複数球団を転々とするが、その間の1967年にはナショナルリーグMVPを、1973年には最優秀指名打者賞を受賞している。1974年に現役を引退した。

通算オールスター出場9回。ワールドシリーズ出場3回を果たしている。

Remove ads

引退後

引退後のセペダの生涯は波乱に満ちたものだった。選手時代の後半からケガの治療でマリファナを常用し始め、引退後の1975年、マリファナの密輸に関与したとして逮捕された。そして、懲役5年の有罪判決を受け1978年フロリダ州のエグリン刑務所に収監された(ただし、この裁判の杜撰さが弁護士によって指摘され、結局10か月で仮出所する)。

親子二代にわたってプエルトリコの野球の英雄だっただけに、故郷での反発は激しく、この間のセペダにとっては正に針のムシロ的状況で、メジャーリーグでも彼を出入り禁止処分とする球団も存在した(この頃SGIに入会している)。

だが、かつての古巣・ジャイアンツが広報担当としてセペダに手をさしのべ、セペダもそれに応えて再起し、青少年への薬物乱用防止キャンペーンや刑務所の慰問、エイズ患者のスポーツ参加などに積極的に貢献した。

Thumb
セペダのジャイアンツ在籍時の背番号「30」。
サンフランシスコ・ジャイアンツの永久欠番1999年指定。
Thumb
2008年のMLBオールスターゲームのパレードでのセペダ

やがてその功が報われ、1993年にはプエルトリコの野球殿堂入りを果たし、そして1999年ベテランズ委員会の特別表彰により、「青少年の模範」としてアメリカ野球殿堂入りを果たす。同年、古巣ジャイアンツはセペダの在籍時の背番号30』が永久欠番に指定され、その功績を称えられた。2001年には21世紀最初のオールスターゲームの始球式を務める。

他にも2000年にはニューヨーク州から「勝利の人生」賞を受賞している。2006年には日本で潮出版社から「オーランド・セペダ自伝」が発刊された。

2018年にゴルフのプレー中に倒れ、脳卒中と診断、療養生活を送っていた。

2024年6月28日死去。86歳没[1][2][3]

Remove ads

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル 

表彰 

  • シーズンMVP 1回 1967年
  • 新人王 1958年

記録 

  • 通算本塁打数:379本
  • オールスター戦出場:9回
  • 1993年プエルトリコ野球殿堂入り
  • 1999年、アメリカ野球殿堂入り

著書

出典

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads